フルトヴェングラー指揮トリノ・イタリア放送響のシューベルト「未完成」(1952.3.11Live)を聴いて思ふ

ブラームスもブルックナーもシューベルトも、いやベートーヴェンでさえ、つい近年までアルプスの南側では、現実に共感をこめて傾聴されるというよりは、敬して遠ざける傾向がなきにしもあらずでした。イタリア人のなかにもまどろんでいるロマン的なものへの秘やかな憧憬を、たかだか数年のかの地での活動によって充たすことは、フルトヴェングラーにしてはじめて可能なことでした。
(ハインリヒ・シュミット「オーストリアとイタリアにおけるヴィルヘルム・フルトヴェングラー」)
~マルティーン・ヒュルリマン編/芦津丈夫・仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーを語る」(白水社)P238-239

終演後の猛烈な拍手喝采が、独奏者に送られたものなのか、それとも指揮者に送られたものなのか、それはわからない。しかし、イタリアはトリノへの客演はフルトヴェングラーにも相当の収穫をもたらしたようで、再現された音楽に内在する、意味深さとはある意味正反対の、明朗さや軽快さが何とも喜ばしい。

1952年3月11日のヴィルヘルム・フルトヴェングラー。
ヴァイオリン独奏は、ジョコンダ・デ・ヴィート。
メンデルスゾーンの協奏曲は、音が揺れ、ポルタメントが多用され、あまりに古風な味付けが鼻につく感もあるが、音楽の進行と共に熱を帯びていく様が、いかにもフルトヴェングラー流で、この演奏の主体もあくまで指揮者であることが容易に想像できるもの。おそらく、録音がもっと良ければ、否、会場に居合わせることができたなら、途轍もない感動を呼び起こされたであろうと思われる。あまりに人間臭い、浪漫的で粘着質の大演奏。

イタリアのヴィルヘルム・フルトヴェングラー
・シューベルト:交響曲第8番ロ短調D759「未完成」
・メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64
ジョコンダ・デ・ヴィート(ヴァイオリン)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(1952.3.11Live)

一方のシューベルト「未完成」交響曲は、第1楽章アレグロ・モデラート冒頭こそ手探りの、大人しい目の解釈だが、曲の進行とともに俄然興に乗り、作品の器を超えんばかりの灼熱地獄が繰り広げられる。素晴らしいのは、第2楽章アンダンテ・コン・モート。何とも懐かしさ溢れる抒情。旋律は悲しみを歌い、喜びを鼓舞する。

主人という人は、古臭い伝統的な解釈の上に立つ演奏かだと皆からいわれていますし、実生活でも、過去のことを懐かしみ、昔のことに郷愁を感じる人間であるかのように思われているようですが、とんでもありません。主人は、毎日毎日の生活が今日に生きるものでした。その日その日の生活を楽しむ、というのが主人の生き方だったのです。
志鳥栄八郎「人間フルトヴェングラー—エリザベット夫人にきく素顔の巨匠」(朝日文庫)P175

エリーザベト夫人の言葉に納得する。
フルトヴェングラーの芸術が、ある意味刹那的であり、即興的であったのは、彼が「今」にのみ生きる人だったからだろう。彼の音楽は決して廃れない。何故なら常に「今ここ」ゆえ。自家薬籠中のシューベルトの、フルトヴェングラーらしい浪漫に感動する。

 

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