JCAA Presents The Chorus Plus V

音楽とは、呼吸だ。
今ここで生み出された音が、今ここで消えてなくなっていく。
言葉でどれだけ補完しようと、音楽そのものは次の瞬間無になる。
音楽とは、不思議だ。

作曲家がいて、作品が生まれた背景や、作品への思いが語られる。
それだけで、その場にいる価値は倍増する。音盤では味わえない空気感と、演出なのかそうでないのかわからないが、突発的に起こる、コンサートならではの事柄。
生きているのだと実感した。

第5回「ザ・コーラス・プラス」を聴いた。楽しかった。
文字通り、合唱(または声楽アンサンブル)と+αの楽器による喜びのパフォーマンス。
新しい音楽が、新しい演奏を得て、僕たちの耳に届く。
気持ちが滅入ったときや、心が重いときこそ現代の音楽を聴き給え。
その新しさにきっと癒されることだろう。

冒頭、五木田岳彦による「月読み歌」は、瑠璃の詩に触発されたそうで、斎藤光晴の神韻縹緲たるフルートの音色を伴い、「時の永遠」が表現された歌。繰り返される、歌詞中の「翡翠の涙」というフレーズが沁みた。

続く鍋島佳緒里の、ノーベル文学賞作家のオクタヴィオ・パスの詩に曲を付した「内なる樹木」は、一つとして同じもの、同じ人がいない世界において、命の絆はつながり、すべてが一つであることを歌ったもの(パスは元々外交官だったらしい)。コーラスのハミングの下、聴衆の想像力を高めるべく訳詞が朗読され、その後、(想像力の延長の中、音楽を泳ぐように)原語(スペイン語)でパスの詩が歌われたが、複雑に絡み合う声部にあって、見事に統一感をもたらす音楽美に僕は感動した。作曲家の、パスを評しての「ドライな文体、ルポ・ライター的な外面ながら中身はとても熱い」という言葉が印象的。

そして、本コンサートのプロデューサーでもある猿谷紀郎による「詩に就いて」は、谷川俊太郎の詩に曲を付けたもので、バス・フルートのオブリガート付きの女声合唱曲。元々はヴィオラのオブリガートだったものを今回バス・フルートに置き換え、再演の運びに至ったのだと。作曲家の解説によると、弦の音は空気に溶け込んでいく一方で、管の音は一音一音が浮き彫りになり、まったく違った印象の作品として仕上がっているそう。それにしても、演奏後に斎藤光晴さんが、司会の小六禮次郎さんの振りで、ビゼーの「アルルの女」からメヌエットの主題を、フルート、アルト・フルート、バス・フルートで吹き分け、音色の違いを実演で示していただけたことが興味深かった。

前半最後は、御年85になる天才一柳慧による「魔法の言葉」。ネイティブ・アメリカンの奥深い詩と、一柳の、一柳らしからぬ(?)癒しの歌に音楽とはやはり呼吸なんだと痛感した(いかにも前衛的な音楽を期待したが、随分易しかった)。
作曲家自身の言葉が重い。

現代人は、特に都会に住む我々は、文明の恩恵を受けつつも自然から遠ざかっている。ネイティブ・アメリカンの詩は、我々が失ったものの大きさを知らしめてくれる。彼らは、動物とともに住み、動物の声が理解できるのだと。そしてまた彼らは、現実に飲み込まれ、夢を持てなくなるから働いてはいけないと言うのだと。

The Chorus Plus V
2018年5月29日(火)19時開演
サントリーホール・ブルーローズ
・五木田岳彦:月読み歌 – Tsukiyomiuta – (詩・瑠璃)
斎藤光晴(フルート)
西川竜太指揮暁(女声合唱)
・鍋島佳緒里:内なる樹木 (詩・オクタヴィオ・パス)
栗山文昭指揮栗友会合唱団
・猿谷紀郎:詩に就いて (詩:谷川俊太郎)
齋藤光晴(バス・フルート)
西川竜太指揮暁(女声合唱)
・一柳慧:「魔法としての言葉」より魔法の言葉(エスキモー族) (詩:金関寿夫)
齋藤光晴(フルート)
西川竜太指揮空(混声合唱)
休憩
・徳永洋明:ティラミス風パンケーキラズベリーソース添え
コーラスプラス・スペシャルユニット(石塚まみ、斉藤妙子、山田洋子)
徳永洋明(ピアノ)
・武永京子:エリントンとスティービー
コーラスプラス・スペシャルユニット(石塚まみ、斉藤妙子、山田洋子)
武永京子(ピアノ)
丹菊正和(パーカッション)
・新実徳英:Suavies Cantus (詩・ジョン・コーツ)
齋藤光晴(フルート)
篠田昌伸(ピアノ)
西川竜太指揮空(混声合唱)
・小六禮次郎:話して
栗山文昭指揮栗友会合唱団
・湯浅譲二:「ふるさと詠唱」より第2曲「桃の木に」 (詩・三谷晃一)
篠田昌伸(ピアノ)
西川竜太指揮暁(女声合唱)
日高のり子(司会)

15分の休憩を挟み、後半最初の2つは、少々毛色が異なるほとんどポップスと言うべき声楽アンサンブルの作品。徳永洋明は、言葉が音楽を邪魔する可能性を考慮し、あえて思想のない作品をここに問うべく、奥様の実際のレシピを詩に使い、楽しい、揺れる音楽を創造したそうだ。良かった。また、武永京子による「エリントンとスティービー」も、標題通りジャジーで乗りの良い作品。この後、飛び入りで会場にいらしたNHKアナウンサーの武内陶子さんが呼び出され、結果的に舞台上でゴスペル・ソング”Oh Happy Day”を披露することになったが、なかなかの歌唱力だったことに驚かされた(いかにも偶然のイベントのように装われていたが、流れ的にいってこれは間違いなく決まっていたことだろう)。

プログラムは、本来の形(?)に戻って、コンテンポラリーの第一人者新実徳英の”Suavies Cantus”。コーツの「ギリシャの壺に寄せるオード」の一節「聴こえる旋律は美しい、しかし聴こえない旋律はもっと美しい」という内容の英語詩を、あえてラテン語に訳出しての合唱曲。ラテン語の響きの宗教性に痺れた。これは本当に素晴らしかった。

そして、小六禮次郎による「話して」は、混声合唱を整列させないでバラバラに配置し、いわゆるアカペラ・ヴォカリーズで表現した佳作。

最後は、重鎮湯浅譲二が35年ほど前、アメリカ時代に書き上げたという「桃の木に」。88歳になる湯浅さんも会場にいらして、演奏前に言葉を述べられたが、(失礼ながら)いかにも好々爺でありながら、清楚で高貴な姿に生きる佛のような印象を僕は持った。何だか「桃の木」はとても泣ける曲だった。

音楽とは、本当に不思議だ。

 

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