ティボー&コルトーのフランク ソナタ(1929.5録音)ほかを聴いて思ふ

悲しみよ さようなら
悲しみよ こんにちは
天井のすじの中にもお前は刻みこまれている
わたしの愛する目の中にもお前は刻みこまれている
お前はみじめさとはどこかちがう
なぜなら
いちばん 貧しい唇さえも
ほほ笑みの中に
お前を現わす
エリュアール「直接の生命」

フランソワーズ・サガンの処女作「悲しみよ こんにちは」の冒頭に置かれたポール・エリュアールの詩が、迫る。

見えない風景、聴こえない音。
人には感知できずとも、そういうものは確かにある。
梅雨時の、暗い薄曇りの向こうにも確かにお日様はあるのだ。
アナログ・レコードの柔らかな音が発するエネルギー。
何にせよ人間を中心に考えない方が良い。

その昔、擦り切れるほど聴いた東芝エンジェルのGRシリーズ。
ジャック・ティボーのヴァイオリンとアルフレッド・コルトーのピアノによるフォーレとフランク。まさに20世紀演奏史の原典。

先日聴いたチョン・キョンファのフォーレは素晴らしかった。年齢を重ねても、彼女の音楽の底にある情念の深さは変わらない。直接に心に迫る「恋の炎」が投影された凄演。ちなみに、ティボーの音楽の外面はまったく違う。ライナーノーツで濱田滋郎さんは、「このレコードこそ、ひとつの紛れもない時代、ひとつの紛れもない国民性を、永遠に褪せぬ香気とともに封じこめた魔法の函ではあるまいか」と評するが、90余年も前に録音された音楽の恐るべき瑞々しさ、というより、あの時代だからこその空気感までもが一緒にレコードに収まっているようで、死後まだ間もないフォーレへの追悼の意が入るのか、作曲者特有の色香が見事に刻印されていることが如実に伝わるのである。何より第2楽章アンダンテの筆舌に尽くし難い琥珀色の美しさ。また、第3楽章アレグロ・ヴィーヴォの、弾ける憂鬱。明朗さの中に潜むフォーレ特有の仄暗さの表現が実に巧い。

しかし、それ以上に心をとらえて離さないのが、フォーレの「子守歌」。囁くように歌うティボーのヴァイオリンの夢見る優しさ。ここでのコルトーは控えめに伴奏者に徹する。

・フランク:ヴァイオリン・ソナタイ長調(1929.5録音)
・フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調作品13(1927.6録音)
・フォーレ:ヴァイオリンとピアノのための子守歌作品16(1931録音)
ジャック・ティボー(ヴァイオリン)
アルフレッド・コルトー(ピアノ)

熱烈で甘美なポルタメントが迫る。フランクのソナタ第1楽章アレグレット・ベン・モデラートの祈り。ティボーもコルトーも、一音一音に思いの外気持ちを込める。また、第2楽章アレグロの、深淵を覗き込むほどの暗さと情熱と。

考える自由、常識はずれなことを考える自由、少なく考えることの自由、自分の人生を選ぶ自由、自分自身を選ぶ自由。私は「自分自身で在る」と言うことはできない。なぜなら私はこねることのできる粘土でしかなかったが、鋳型を拒否する粘土だった。
私は人が、この変化に複雑な理由を見つけることができること、また私に素晴らしいコンプレックスを課すことができることを知っている。父に対する近親姦的な愛情とか、あるいはアンヌへの不健全な情熱とか。
サガン/朝吹登水子訳「悲しみよ こんにちは」(新潮文庫)P63

近親姦的な愛情とか、不健全な情熱とか、まさにセシルが語る感傷的な好奇心や病的な独占欲を表出するような、ティボーとコルトーの生み出す懐古的な響き。すべては満たされない欲求から生まれるゲームであることを残念ながら少女は知らない。
第3楽章レチタティーヴォ—ファンタジアの奥深い詩情に涙し、終楽章アレグレット・ポコ・モッソの明朗な回想に僕は膝を打つ。

ただ、私がベッドの中にいるとき、自動車の音だけがしているパリの暁方、私の記憶が時どき私を裏切る。夏がまたやってくる。その思い出と共に。アンヌ、アンヌ!私はこの名前を低い声で、長いこと暗やみの中で繰返す。すると何かが私の内に湧きあがり、私はそれを、眼をつぶったままその名前で迎える。悲しみよ こんにちは。
~同上書P157

音楽も文学も、見えない行間を感じることが大切だ。

 

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