朝比奈隆指揮大阪フィルのワーグナー名演集(1983.10.4Live)を聴いて思ふ

リヒャルトは今日、わたしを「わが高貴なる女性」と呼んだ。ああ、そんなふうに呼びかけられる価値がわたしにあるだろうか。どうしたら彼に尽くせるだろう。どうすれば、これほど彼を愛していることをわかってもらえるだろうか。
(1872年4月20日土曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P191

コジマのこれほどの純愛がリヒャルト・ワーグナーの崇高な芸術を創造せしめたのだろうか。ちなみに、コジマの座右の銘は、グツコウの小説「フリッツ・エルロート」に引用された古い詩句「ものごとを一切無区別の心境において受け入れるなら、それが愛であれ、苦悩であれ、平静と不動の心を保っていられるだろう」であったという。

裏返せば彼女の愛は、真の純愛ではなかったということだ。人間というもの、そう容易に聖人君子ではあれぬもの。

リヒャルト・ワーグナーの粋な計らい。
誕生日の、これ以上ない贈物である「ジークフリート牧歌」。

「最近、自分のドラマに没頭しながら、コジマ以外のことにこれほど夢中になっていると、おそらく彼女は焼きもちを焼くだろうと思った。しかし、こうしたこともすべて彼女がそばにいてくれるからやれるのであって、彼女を得たればこそ存分に仕事をしようという気にもなるのだ、と」。「わたしたちが昔もっと恵まれていたなら、別離の不幸をずっとつらく感じていたであろう、だが、あれほどの苦しみがあったからこそ、再会できただけでも幸せと思えたのだ」。
(1872年2月22日木曜日)
~同上書P129

彼の、彼女に対する愛は本物だ。何より慈愛に溢れる音楽がものをいう。

20年ほど前、朝比奈隆の「ジークフリート牧歌」を聴いた。小さな編成で、それこそ指揮者は何もしない、室内オーケストラにすべてを委ねて奏された癒しに満ちる演奏だった。朝比奈のワーグナーには、深い愛情が宿る。あるときは、本人の意志を超えた、また、オーケストラの力量を超え刻印された真実が眼前に繰り広げられた。

ワーグナー名演集
・ジークフリート牧歌
・楽劇「神々の黄昏」~
—ジークフリートのラインへの旅
—ジークフリートの葬送行進曲
—ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲
曽我栄子(ソプラノ)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1983.10.4Live)

大阪フェスティバルホールにおける「神々の黄昏」からの抜粋は、どの瞬間も神々しいばかり。ティンパニの無機的な音がかえって音楽に深みを与えるのだから、(技術的には劣るとはいえ)当時の朝比奈&大阪フィルの音楽性の豊かさ(特にドイツ音楽に対する)に舌を巻く。特に「ジークフリートのラインへの旅」の勢いと熱量たるや・・・。
それに、曽我栄子のブリュンヒルデが想像以上に素晴らしい「自己犠牲と終曲」は、もちろん朝比奈のワーグナー音楽への底なしの愛情が花開いた結果だが、何より最後の管弦楽だけによる「救済」のシーンは、とても生々しく、聴いていて胸が熱くなるほど。

以前から、ワーグナーの伝記などを読んで感激してたんです。この人は、色々な角度があって、デマゴーグのような所もあるし、政治に首をつっ込んだり、物も書くし、いろんなことをやっている。その中で僕らにとって一番尊敬するのは彼の作曲ですね。松原さんから、音だけで、しかも、オリジナルスコアに書いてある通りの編成でやるということを言ってきた時に、ドイツの人に話したらうらやましがられましてね。
もう一つうれしかったのは、日本の若い歌手の技術が伸びて、昔とは隔世の感があることです。
(てい談/朝比奈隆・高辻知義・松原千代繁1987年12月16日(水))
~YMCD5001/15ライナーノーツP23

この録音の直後スタートした、新日本フィルとの「指環」ツィクルスを、残念ながら僕は聴けなかったのだが、それにまつわる興味深い裏話が、後にリリースされた実況録音盤の解説書に掲載されている。歴史的価値のある「指環」全曲盤同様、朝比奈の思いのこもったワーグナーは実に人間的で素晴らしい。

 

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