ウゴルスキのベートーヴェン作品111(1992.1録音)ほかを聴いて思ふ

僕はずっとマルタ・アルゲリッチのベートーヴェンを聴きたいと思ってきた。
特に後期のソナタ、中でも作品111を長い間夢見ていた。しかし彼女は、今となってはベートーヴェンを、いや、独奏ソナタそのものをもはや弾く気配はない。

ある日、リヒャルト・ワーグナーは、妻コジマに次のように語ったという。

昼食後、彼は思い立ってベートーヴェンの《ソナタ作品111》を弾き、ある変奏についてこう語った。「ここのところへくると、たちまち情景が切り替わり、数えきれないほどの木の葉がさざめき、何百万という蝶が飛びかうような気がしてくる。ああ、ベートーヴェンのような人に会いたい!それが若い頃のわたしの夢だった。それがかなわない、シェイクスピアやベートーヴェンのような人間にもう会うことはできない。この沈鬱な思いは生涯わたしにつきまとって離れなかった。そして同時代を生きた人たちのなかで、これこそ〈自然が造り、型を割って取り出したNatura lo fa e poi rompe lo stampo〉真に偉大な存在であると思えた人物は皆無といってよいだろう。—ショーペンハウアー!彼とは会う機会を逸した。わたしがビープリヒに落ち着き、二人の間に真に実りゆたかな交流が生まれることになったかもしれない、そのとき彼は世を去ったのだ。きみの父上は、どう見ても偉人の風格があった—しかし!・・・」。
(1872年8月23日金曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P342-343

ベートーヴェンは確かに偉大だ。
そして、彼の遺した最後のピアノ・ソナタは、この世のものと思えない聖なる音と俗なる音が錯綜し、しかも音調も静かに蠢くと思えば突然弾け、悲しみに沈むかと思えば喜びの声を上げるという代物で、ワーグナーが言うように(おそらく第2楽章アリエッタ第4変奏あたりの)大自然の創造物の(無意識でありながら実に計算された)かそけき音々が散りばめられた傑作なのである。

もしもアルゲリッチが弾いたなら、ワーグナーが望むような音楽になったのではないのか。文字通り「数えきれないほどの木の葉がさざめき、何百万という蝶が飛びかう」アリエッタを。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111(1992.1録音)
・6つのバガテル作品126(1991.7録音)
・バガテル「エリーゼのために」イ短調WoO59(1991.7録音)
・ロンド・ア・カプリッチョト長調作品129「失われた小銭への怒り」(1992.1録音)
アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)

アルゲリッチもぶっ飛ぶであろう26分54秒を要する超スローテンポの第2楽章アリエッタは、世界を超越した幻視であり、遅いテンポであるがゆえの(光のような)目には見えない精神性、すなわちスピリチュアリズムを問う。
久しぶりに聴いて思った。果たして実演でこれほどのものが本当に生まれ得るのか?筆舌に尽くし難い感動が心の奥底から湧き上がる。
しかしながら、恐るべきは6つのバガテル!!「ちょっとしたつまらないもの」どころか、一つ一つの小さな作品が巨大な交響作品として鳴り響く様に度肝を抜かれる。例えば、第4曲プレストの豪快さ、そして、第5曲クワジ・アレグレットの可憐で恍惚の癒し。あるいは、第6曲プレスト—アンダンテ・アマービレ・エ・コン・モートの変幻自在!!

父アナトール・ウゴルスキのDNAを受け継いだ娘ディーナ・ウゴルスカヤの作品111。
二人の音楽の形は明らかに異なる。しかし、色彩は驚くほど似ており、共にベートーヴェンの天才を刻銘に歌い上げる。何という崇高な精神!ちなみに、ウゴルスカヤによる第2楽章アリエッタの所要時間は18分28秒。テンポが真面な分、音楽はより自然体に近い。第4変奏の暗い愉悦の踊りは、宇宙と共鳴する魔法とでも表現しようか。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
ディーナ・ウゴルスカヤ(ピアノ)(2011.11録音)

昇天し、浄化し行くベートーヴェンの魂は、もう輪廻転生しない。その透明な響きたるや。
最後の和音の残響が消え入るのを確認し、間髪入れず、再び父アナトールのバガテルを聴く。「エリーゼのために」。悟りを得たベートーヴェンが気高い楽園を描いた小さな作品が、ウゴルスキの手によって美しくも哀しい、そして完璧な作品として浮かび上がる。
続く、ロンド・ア・カプリッチョにある生命力は、俗称通りの人間味豊かなもの。ウゴルスキの(猛烈に指の回る)超絶テクニックが聴きもの。

ギリシア悲劇の没落は、従前のすべての姉妹芸術の種類とは異なっていた。ギリシア悲劇が自殺によって、解き難い相克によって、すなわち悲劇的に死んだのにたいして、これらの芸術はすべて天寿を全うして極めて美しい安らかな死を遂げたのである。すなわち、美しい子孫を残し、思い残すこともなくこの世を去ることが、幸福な自然の状態にかなったことであるとすれば、これら従前の芸術の種類の最後はかかる幸福な自然的状態を示している。
塩屋竹男訳「ニーチェ全集2 悲劇の誕生」(ちくま学芸文庫)P96

その結果われわれはこの二重性そのものをば、ギリシア悲劇の起源および本質として、二つの相互に織り交ぜられた芸術衝動の表現、すなわちアポロン的なるものとディオニュソス的なるものとの表現として再発見するに至ったのである。
~同上書P104-105

フリードリヒ・ニーチェの繊細な思考がワーグナーを駆り立てる。

すなわち、ドイツ的精神のディオニュソス的な根底から一つの力が立ち現れたのである。この力たるや、ソクラテス的文化のもろもろの根源的制約とは何らの共通点も持たず、それらからは説明も弁護もされ得ず、むしろかかる文化によって、説明し得ない恐るべきもの、強大で敵意に満ちたものとして感ぜられるものであって、ドイツ音楽がすなわちそれである。われわれは特にこの音楽の、バッハからベートーヴェンに至り、ベートーヴェンからヴァーグナーに至るその力強い日輪の歩みをば理解しなければならない。
~同上書P162-163

そして、ワーグナーの大本にはベートーヴェンがあり、またバッハへとつながるのだと分析し、このいわば金線一条は、ドイツ音楽の神髄があると絶賛するのである。冒頭にあげた、ワーグナーがコジマに語った言葉には、その頃上梓された「悲劇の誕生」の影響をまさに受けていよう。

かかる社交の意義は、ショーペンハウアーのかの山のあらしの寓話が教えてくれるであろう。かくして、芸術を喋々すること、当今よりはなはだしきはなく、芸術を軽んずること、また当今に優るはなき状態と成ったのである。しかしながら、ベートーヴェンやシェークスピアをもって座談の興となし得るごとき人間となおかつ交わりを続けることができるであろうか?何人でも好みのままにこの問いに答えるがよい。
~同上書P185-186

偉大なるベートーヴェン!!
あらためて思う。やっぱり僕はマルタ・アルゲリッチの弾くベートーヴェンが聴きたい。

 

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