ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省響のブルックナー第1番を聴いて思ふ

ブルックナーははじめからブルックナーだった。
様々な音楽的体験から習作を経て、1866年に完成された交響曲第1番は、どこをどう切り取っても間違いなく彼の作品であることがわかる名作である。

レオポルト・ノヴァーク曰く、ブルックナーは窮屈さが生んだ天才なのだと。

ブルックナーの性格を観察する際に考慮するべきは、彼の本来の、そして最初の職業は作曲家ではなかったということである。
「ブルックナーの偉大さについて~没後75年に寄せて」(1971-72)
レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P9

ブルックナーは、その生涯のほぼ終わり近くまで教える人であり続けた。彼は、妨げなく創作することは許されず、毎日の最良の時間を雑事に捧げねばならなかった。確かに彼は、そうしたことに心からの愛情を注いだが、そのことが作曲という彼本来の課題を満たすことを妨げたのである。
~同上書P10-11

作曲に専心できなかったことが、傑作を生み出す原動力だったということに僕は衝撃を覚えた。精神的、肉体的余裕こそが天才を発揮する条件であると思っていたが、あらゆる意味での呪縛が類稀なる力量を引き出したことに驚きを隠せない。ノヴァークはブルックナーを「矛盾のはざまの天才」だとする。

《交響曲第0番》(1863~1864)と《ミサ曲ニ短調》(1864)によって、彼は自分を見出すことができた。しかし、彼自身の人間的性格の矛盾はそれほど早く克服できなかった。長年にわたり絶えることなく続けられた研究と、1864年と1866年の間に爆発的に現われた創作力は、神経の破綻を引き起こしたのである。肉体的な力は精神的な力に激しく抵抗し、服従を拒んだ。ブルックナーは精神と肉体に矛盾をきたし、この戦いから傷をこうむった。とりわけ高度の神経過敏と「教えマニア」は、生涯にわたって彼につきまとった。
「矛盾のはざまの天才」(1974)
~同上書P17

ブルックナーも紙一重の天才だったということだ。

あまりに男性的で筋肉質の演奏に、以前は抵抗感があったのに、今の僕にはない。それこそ、神経の破綻を引き起こすほどの矛盾を孕む中に、壮年の作曲家が、神から得たインスピレーションを見事な形にしたハ短調交響曲。荒々しくも瑞々しい最初の稿は、ブルックナーという作曲家の未来への大いなる希望の雛形であると今さらながら思う。
何よりゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが録音した新旧2つの稿は、いずれもがアントン・ブルックナーの天才を示す自信と確信に溢れる演奏だ。

ブルックナー:
・交響曲第1番ハ短調(1866年第1稿:リンツ稿)(1986録音)
・交響曲第1番ハ短調(1890-91年第2稿:ウィーン稿)(1984録音)
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団

昔、ギュンター・ヴァント指揮ケルン放送響によるウィーン稿を初めて聴いたとき、受ける印象のあまりの違いに驚いた。最晩年のブルックナーの円熟の、というか完成された方法によって再構築されているのだから当然なのだが、良く言えば洗練された、悪く言えば若々しい冒険心と革新がスポイルされた装いに少々戸惑った。しかし、今となってはいずれもが愛すべきブルックナーの傑作であり、特に両者の、時間の経過による進化、深化の顕現を体感できることが何よりの贈物であることに感謝の念が絶えない。

第1楽章アレグロ。多くの箇所で楽器が重ねられ、厚みのある響きのウィーン稿は、どちらかというと大人しい印象。ロジェストヴェンスキーの魂は、リンツ稿により感化されるようだ。また、大自然の息吹と神々の崇高さを感じさせる第2楽章アダージョは、リンツ稿の素朴さに対し、ウィーン稿の完成された響きが素晴らしい。ここでの指揮者は無心に祈る。そして、第3楽章スケルツォも両者の管弦楽法はまったく異なっており、聴いていて実に面白い。

第2トリオの後半では、《ウィーン版》における一番の問題点が顔を出す。一つは33小節からの弦のスピッカートをピッチカートに変えていることで、弟子たちの《改訂版》の匂いがする。もう一つは第2スケルツォの反復のあと6小節の新しく作曲された経過句のあと、スケルツォの9小節目に戻るように指示されていることで、スケルツォの冒頭が戻って来ないなどというのはブルックナーの様式上考えられず、弟子たちの勧告があったとしか思えない。
「ブルックナーの『第1交響曲』における《リンツ版》と《ウィーン版》について」
~ULS-3284-Hライナーノーツ

トリオに関し、宇野功芳さんは上記のように指摘しているが、すべては憶測に過ぎず、様式という常識を超える愉しみこそブルックナーの醍醐味であることを忘れてはならないと思う(実際、ロジェストヴェンスキーのウィーン版は美しい)。豪壮な終楽章は、冒頭からリンツ稿の荒々しさが素晴らしい。しかし、ウィーン稿を聴く限りにおいて、ロジェストヴェンスキーの演奏はあまりに煩い印象を拭えず、いくら何でもやり過ぎのように僕には思える。

ここには「人間」ブルックナーの性格的特徴が深く根ざしており、その「人間」ブルックナーが、「作曲家」ブルックナーに、こうしたしばしば非常に困難で、むやみに時間のかかる仕事を強制したのである。外からの影響、ブルックナーにとってそれが最善であると信じていた友人たちの影響も同様に存在した。彼らは、出版の際でさえ変更を行った。それらは大概は楽器のうえでの変更であったが、形式を変えたこともある。
「ブルックナー研究の諸問題」(1976)
~同上書P28-29

ロジェストヴェンスキーは良い仕事をした。

 

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