無意識でいると、知識はまた足枷になる。
僕たちは時間という記憶の中に生きていて、そのことに気づかずに、常識という枠に囚われ、日々苦悩しているのだということをあらためて認識した。刷り込みを外し、いかに自由になれるか。心を、そして頭を無にして一期一会の場に立ったとき、新たな発見があるというもの。
アントン・ブルックナーは常人には推し量れない天才だ。
シモーネ・ヤングを(音盤でも実演でも)これまで聴いたことがなかった。
驚いた。あまりに新鮮な、そして、ありのままのブルックナーの姿を初めて見て感じ、度肝を抜かれた。支離滅裂だという人もあるが、ここには真のアヴァンギャルドがあった。「各ブロックは金管のファンファーレやゲネラル・パウゼで明確に区分され、それぞれ全く独立した世界を形成するのである」という金子建志さんの指摘通り、彼の頭に最初に鳴り響いたものは、エントロピーたる大宇宙の顕現であり、また神々の黙示であり、後の版はすべて整理され尽くした、あまりに人間的な、(人々に受け入れられやすくするための)「影」の部分に過ぎないのだということを悟った。素晴らしかった。言葉にならない感激が今も僕の内側に蠢いている。
メリハリのはっきりした、明確な輪郭を持つ、わかりやすい造形。
エネルギーはあくまで中性的で、音調は浪漫と即物の間を行き来する。カオスであるがゆえのパワーが潜む傑作であり、優れた演奏だった。第1楽章アレグロ、第2主題直前の「間」の美しさ。あの沈黙こそがブルックナーの神髄なのである(以降も全編を通じ見事な「間」が置かれる)。あるいは、再現部のフルートが主題を吹き、弦楽器がオブリガートを付ける箇所は、普段聴き慣れている版とは音形が異なり、初めて出逢ったときの感動を思い出す懐かしさ。震えた。第2楽章アンダンテ・クワジ・アレグレットの「間」のセンスの良さにも痺れた。何よりホルン・ソロの美しさ。音楽が頂点に達した後の浄化の様、気の良さはいかばかりだったか。そして、初稿にしかない終結のホルンのフレーズの意味は、第3楽章スケルツォ冒頭のホルンによって奏される主題に受け継ぐための前哨だったということに気づき(初稿のスケルツォの存在意義はここにある)、主部の提示ごとにニュアンスの変わる主題は、まさにブルックナーの本懐であるように僕は思った。
白眉は終楽章(アレグロ・モデラート)。言葉にできない大宇宙の真理を音化したいわば「絶対」の歌。音楽は途切れ、地を這い、宙を舞い、人間技とは思えぬ速度と広がりで、会場を支配した。指揮棒から一閃が放たれ、最後の音が鳴り渡り、聴衆は息を飲んだ。
新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会
ルビー〈アフタヌーン コンサート・シリーズ〉第16回
2018年7月13日(金)14時開演
すみだトリフォニーホール
木嶋真優(ヴァイオリン)
崔文洙(コンサートマスター)
シモーネ・ヤング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団
・ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調作品26
休憩
・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調WAB104「ロマンティック」(1874年初稿・ノヴァーク版)
しつこいようだが、僕はアントン・ブルックナーの真の、赤裸々な姿を見た。聴き慣れない初稿こそ実演に触れなければその真価はわかり得ないと思う。
これら3つのフィナーレ楽章(1874年稿、1880年稿と独立した1878年稿)は、単なる3種類の異なった稿ではない、ということである。なぜなら、そのどれもが固有の「相貌」を備えているからである。これらの「変貌」によって、3つの新しい形象が成立したのである。素材となる動機の使用の変化は、あまりにその度合いが大きく、多様であるため、そこからそれぞれ「新しい」作品が成立しているのである。
「第4交響曲の3つのフィナーレ楽章」(1981)
~レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P152
ちなみに、前半は木嶋真優を独奏に迎えたマックス・ブルッフの協奏曲。音楽は隅々にわたって生き生きとし、女性的な癒しと男性的な力に満ちていた。芯のしっかりした独奏ヴァイオリンは決して埋もれることなく、オーケストラと対等に音楽を奏でた。重心は安定し、音楽の進行とともにドライブがかかり、かのヴァイオリンの名曲が、今生まれたかのようにとても新鮮に響いた。特にオーケストラは、後半のブルックナーの名演を予感させるパフォーマンス。
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