ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団川崎定期演奏会第66回

作曲者自身は、作品にオラトリオと冠されることに否定的な見解だったそうだが、2日連続で触れたエルガー「ゲロンティアスの夢」は、確かにマーラーの交響曲第8番の先取りのように僕には聴こえ、それならば、あえてこの作品を交響曲とするのも妙案かもしれないと思った。

合唱は相変わらずの素晴らしい出来。姿勢は謙虚であり、歌は渾身の、一期一会的美しさとエネルギーに溢れる。オーケストラの響きも重心低く、ソロもアンサンブルも堂々たるもの(金管のコラールが素晴らしい)。もちろんジョナサン・ノットの指揮は余裕綽綽(この大作との出会いは7歳の頃だというのだから筋金入り)。

一昨日、シモーネ・ヤング指揮新日本フィルハーモニーのブルックナー「ロマンティック」第1稿を、また、昨日はサントリーホールでノット指揮東響の「ゲロンティアスの夢」を、そして今日は、川崎での同メンバーによる「ゲロンティアスの夢」を聴いたが、いかにブルックナーの音楽が時代の枠にはまらない独自のものであったのかをあらためて思った。19世紀後半、欧州音楽界は明らかにリヒャルト・ワーグナーの芸術に席巻されていたが、ブルックナーだけは(まったく影響がないとは言わないまでも)ほとんど孤高の境地にあり、凡人が想像もつかないような人間離れした創造性と志向を持っていたことが(少なくとも僕の中で)明らかになったのである。

1900年に生み出された「ゲロンティアスの夢」は、間違いなくワーグナーの世界観の内にある。第1部の、現世への別れを描いた音楽は色香を伴う此岸の音楽であり、マーラーとはまた違った意味で大仰だ。言葉そのものは「聖なるかな」であっても、そこにあるのは人間的な、あまりに俗的で妖艶な性。まさに神や宗教にすがる(?)ゲロンティアスの仮我のなせる業を見るようだ。それゆえに音調は決して難しいものではなく、むしろとっつきやすさすら感じさせるもの。特に、今日は、おそらくホールの所為もあるのだろう、すべてが一層「身近」に思われたのである。

クリストファー・モルトマンの出来はさすがに良かった。サーシャ・クックの深みのある歌もまた素晴らしかった。しかし、マクシミリアン・シュミットは出ずっぱりのせいか、少々お疲れ気味だったか(?)。全体の印象は、会場の条件諸々を含めて考えると昨日の方が良かったように僕は思う。

東京交響楽団川崎定期演奏会第66回
2018年7月15日(日)14時開演
ミューザ川崎シンフォニーホール
マクシミリアン・シュミット(テノール、ゲロンティアス)
サーシャ・クック(メゾソプラノ、天使)
クリストファー・モルトマン(バリトン、司祭・苦悩の天使)
東響コーラス
クレブ・ニキティン(コンサートマスター)
ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団
・エルガー:オラトリオ「ゲロンティアスの夢」作品38
—第1部
休憩
—第2部

颯爽たる、余裕のある指揮運びと演奏で、第2部はニュアンス豊かな部分が頻発し、一層良かった。例えば、天使が魂を諭すことで、ゲロンティアスの魂に、怖れが消えてなくなるその瞬間の絶妙の「間」(昨日よりも劇的か)!!

天使:
あなたの心にわきあがる喜びと落ち着きは
あなたが報われることのあかし、
天に近づいたあかしなのです。

魂:
その時が近づいて、私の恐れも消え去りました。
私の運命がどちらにも偏ることなく
すぐそこに迫ってきた今、
あくまでも静かな喜びと共に待ち受けています。
(秋岡陽訳)

あるいは、天使と天上の合唱の重なる瞬間の神々しさ。

天使:
さあ、もう入り口です。私たちが通りぬける時、
喜びの歌が高らかに歌われるでしょう。

天上の合唱:
いと高きところでは、聖なる方をほめたたえよ、
深みにあってもほめたたえよ。
すべて主のみことばは、何よりましてすばらしく
すべて主のみわざは、何よりまして確かなもの!
(秋岡陽訳)

今日も、最後は輝かしいばかりの愛の調べに包まれた。
ちなみに、オーケストラ、合唱がはけた後は、昨日同様一般参賀(今日は3人の独唱者共々)。
ジョナサン・ノットはいつの間にか巨匠になった。

 

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