ショルティ指揮ウィーン・フィルのワーグナー「ワルキューレ」(1962録音)を聴いて思ふ

聖俗併せ持つ知の巨人リヒャルト・ワーグナー。
妻コジマとの日常生活に溢れる「人間らしさ」、「俗物加減」を知るにつけ、彼の、人間の域を絶する壮大な芸術作品が一層身近なものになる。

夜、リヒャルトはホテルでわたしを非難し、きみはゆったりできないのかね、自分で荷物を詰めたり解いたりしているのを見ていると、こっちまで息が詰まる(そんなことなら、家に残っていてもらったほうがいい)などと言う。そう言われても、いったいどう答えたらよいのか、今もってわからない。
(1872年11月25日月曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P436

リヒャルトの勝手な言い分は、その翌朝には正反対のものに変わるのだから、感情の浮き沈みというか、彼が実に感情の揺れが激しい刹那的な男だったことがここからもよく理解できる。

「きみを妻とする幸せに思い至らぬ連中がいる。だから彼らはきみを苦しめるのだ」。今日、リヒャルトにこう呼びかけられて、わだかまりは氷解した。
(1872年11月26日火曜日)
~同上書P437

たぶんリヒャルトは、常にそこにいたわけでない。少なくとも自身の頭脳の中の想像の世界、すなわち形而上の世界にあったときは、極めて自己中心的な人間だったのだろうと思う。

具合が悪いのは、とりわけ今日のドイツの公衆が種種雑多な分子から成り立っているという事実である。新しい作品がセンセーションを引き起こすと、好奇心から猫も杓子も劇場へおしかけていく。劇場はそうでなくても気晴らしを求める者たちが集まる場所と見なされている。
「公衆と人気」(宇野道義訳)(1878)
三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P23

ワーグナーは、(ある意味)大衆を否定する。そして、次のように本音を語るのだ。

限りなく重要で、そこにこそ救いを見出すことのできるこの過程を偶然の支配から引き離し、周囲からの某がいなく進行させることを意図して、私はバイロイトにおける祝祭劇を思いついたのである。ところがバイロイトにおいて最初の上演を試みた際に、何よりも友人たちを念頭に置いた水入らずの公演を目ざしたのに、部外者の邪魔が入るという遺憾な結果になった。ありとあらゆる異分子が押し寄せてきたために、私たち全体としてまたしても「オペラの上演」を体験するはめになったのである。そこでもういちど問題はあるにしても「民の声」に訴える必要が生じた。「ニーベルングの指環」は、市立劇場や宮廷劇場に現金で売られ、得体の知れない領域でまたぞろ新しい経験を積むことになった。
~同上書P33

「指環」に関し、ワーグナーは「パルジファル」同様、本来はバイロイトでの上演に限定することを望んでいたようだ。彼は「芸術作品が公衆と交わる場合にまず一点の曇りもないということが、高尚な意味での大衆性にとっての基礎となる」とし、周囲の、上演会場を限定すれば人気に陰りが出るだろうという見解を否定する。

それから1世紀近くを経て、初めて「指環」が音盤に記録され、センセーションを巻き起こしたことを当然ワーグナーは知らない。20世紀後半のオーディオ技術の発達が、一般大衆へのワーグナー理解に拍車をかけ、今なお世界中にワグネリアンと称する愛好家がこぞって真夏にバイロイトを訪れることができるのは、皮肉にも彼が頑なに「限定」に固執せず、結果的に周囲の声を大事にし、「指環」を解放したことによるのである。

ゲオルク・ショルティの残した金字塔「ニーベルンクの指環」から「ワルキューレ」。
管弦楽のせせこましさが気にならないではない。古めかしさを残す効果音もなくもがな。しかし、ここにはニルソンがいてクレスパンがいて、キングやホッター、フリックが気炎を揚げるのである。

・ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」
ジェームズ・キング(ジークムント、テノール)
レジーネ・クレスパン(ジークリンデ、ソプラノ)
ゴットロープ・フリック(フンディング、バス)
ハンス・ホッター(ヴォータン、バスバリトン)
ビルギット・ニルソン(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(フリッカ、メゾソプラノ)
ヴェラ・シュロッサー(ゲルヒルデ、ソプラノ)
ベリット・リンドホルム(ヘルムヴィーゲ、ソプラノ)
ブリギッテ・ファスベンダー(ヴァルトラウテ、メゾソプラノ)
ヘレン・ワッツ(シュヴェルトライテ、アルト)
ヘルガ・デルネシュ(オルトリンデ、ソプラノ)
ヴェラ・リッテ(ジークルーネ、メゾソプラノ)
マリリン・タイラー(グリムゲルデ、ソプラノ)
クラウディア・ヘルマン(ロスヴァイデ、メゾソプラノ)
サー・ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1962.5.6-18, 10.21-11.5録音)

人の心を持つブリュンヒルデを歌うニルソンと、非情な(無情な?)父ヴォータンを歌うホッターの駆け引きが見事な第2幕の、手に汗握るドラマと音楽に感動する。何とも急展開の物語を説くに、ショルティの棒は意外に相応しいのかも。しかしながら、最も賞賛すべきは終幕最後の場。「魔の炎の音楽」での、ハンス・ホッターのヴォータンは特筆すべき素晴らしさ。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む