ベロフのドビュッシー「12の練習曲」ほか(1996-97録音)を聴いて思ふ

魔法のピアノ。そもそも作品が半端ない。
遊び心と真摯さと、そして様々な感情が入り乱れる奇蹟の12曲。ピアノが弾けない僕にはわからないけれど、単なる難曲でなく、運指含めピアニストへの挑戦状のような曲集だそうだ。

時は1915年。欧州はかの大戦最中。おそらく音楽どころではなかった時期に、クロード・ドビュッシーはあくまで音楽芸術の必要性と、音楽芸術に内在する希望を説こうとした。

しかしながら、われわれは音楽というこの偉大な慰め手が、やがてそのうちには中断されたすばらしい仕事を再開せずにはすむまい、ということを知っている。音楽がもっと純粋な、もっと光の強い、もっと激しい火の試練から、立派に脱出するだろうとさえわれわれは考える。われわれの武器の運命は、われわれの芸術の歴史の次章において独自の直接的なきらめきを放つのでなければならない。勝利はフランスの音楽意識に一つの不可欠な解釈をもたらすということを、われわれはついに理解するのでなければならない。
(「非妥協」紙1915年3月11日「ついに孤立無援」)
杉本秀太郎訳「ドビュッシー評論集―音楽のために」(白水社)P259

新聞紙上に公開の小論ゆえ、その前向きさには多少の「無理」もあるのかもしれない。実際のところ、彼は当時の書簡の中で、次のようにも訴えているのである。

音楽について、私はもう何ヶ月もそれがなんであるのかわからなくなっています。ピアノの音そのものがいまわしくなっています。
(大宅緒訳)
~COCQ-84347-51ライナーノーツ

健康不安を含め(実際この年の末、彼は直腸癌の手術を受けることになる)、創作意欲すら減退する厳しい苦悩の中で生み出され、ショパンに献呈された「12の練習曲」には、型破りの、ドビュッシーそのものの自由な飛翔がある。

ドビュッシー:
・12の練習曲(1915)
第1巻
—第1曲「5本の指のための」
—第2曲「3度のための」
—第3曲「4度のための」
—第4曲「6度のための」
—第5曲「オクターヴのための」
—第6曲「8本の指のための」
第2巻
—第7曲「半音階のための」
—第8曲「装飾音のための」
—第9曲「反復音のための」
—第10曲「対比された響きのための」
—第11曲「組み合わされたアルペッジョのための」
—第12曲「和音のための」
・見つけだされた練習曲(1915)
・エレジー(1915)
・アルバムのページ(1915)
ミシェル・ベロフ(ピアノ)1996.11-1997-11録音)

いずれもどこか愁いを帯びた音調。クロード・ドビュッシーの前衛が堪らない。
既成の枠を打ち破るエネルギーの大きさ。ドビュッシーは語る。

われわれの自由、われわれ固有の形、それをあらためて見つけ出したいものです。大多数のために、そういう形を発明したのでありますから、われわれがそれを保持するのは正しいことです。あれよりも美しい形などありはしません。
交響曲を作ろうとして息切れしたりするのは、もう沢山です。あまりよい結果を得られぬまま、われわれは交響曲のために肩ひじを張っているのですが、ぜひとならば、交響曲よりもオペレッタを作るのをよしとしましょう。
「フランス音楽のための12の座談会」序(1917)
~同上書P262

もはやほとんど時間の残されていなかったドビュッシーの、辞世の句のような評論ではないか。
立ち止まることなく、進歩、発展を現在進行形で遂げよと彼は言う。この論の締めの言葉はこうだ。

・・・あとのことは未来のうちに書きとどめられるでしょう。
~同上書P262

2分半の「エレジー」も、1分にも満たない「アルバムのページ」も、何と精神的で静かな意志に貫かれているのだろう。
ベロフのピアノは堂に入る。
それでいて決して頑なにならず、自由に世界を飛び回るのだ。

 

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