シューリヒト指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン第1番(1952.5録音)ほかを聴いて思ふ

予想もしない展開ばかり。
それこそ天才の為せる業。しかし、大自然の運行を見ても、すべては蒔いた種の結果。
無意識であるなかれ。

まったく新しいものは存在しない。
大抵は、過去の在りものを借り、何か新しいことを模写した結果が、人々に新たな感銘を与えるのである。

ベートーヴェンは、この曲を、ヘ長調(下属調)の予備のない属7で開始し、それをヘ長調の主和音に解決させている。この開始法は、当時としては珍しいとして、批評家あたりをおどろかしたのだが、実は、下属調の属7で曲を開始し、下属調に入るということは、バッハの《平均律クラヴィーア曲集》のなかの曲やハイドンの弦楽四重奏曲あたりでもすでに使われていたのである。ただそれを、音量の大きな交響曲で用いるというのは先例がなかったし、この場合に、それにつづく小節においても、すぐに主調のハ長調に入らずに、ハ長調の周辺をさまようような手法をみせている。
「作曲家別名曲解説ライブラリー3 ベートーヴェン」(音楽之友社)P22

ベートーヴェンの音楽が、何百年もの間、飽きもせず聴き継がれるのには相応の理由があろう。大事なことは、「日々新た」ということ。

ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21(1952.5.27-30録音)
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・交響曲第5番ハ短調作品67(1949.6.13録音)
カール・シューリヒト指揮パリ音楽院管弦楽団
メンデルスゾーン:
・序曲「フィンガルの洞窟」作品26(1954.4.26&27録音)
・序曲「静かな海と楽しい航海」作品27(1954.4.26&27録音)
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

シューリヒトの解釈は、決して即物的なものでなく、速いテンポながら的を射たパッションに満ちるもの。クールな第5交響曲にも底知れぬ「熱」がある。第1楽章アレグロ・コン・ブリオに漲るエネルギー、そして、第2楽章アンダンテ・コン・モートの揺るぎない魔法。

シューリヒトは自分の演奏が常に崇高なものだけではないことを自認していた。もし彼が誠実な芸術家でなければ、そんなことを口にするだろうか。彼は、「田舎」で、ラジオ局のスタジオで、理想からは程遠い状況のなかで、オーケストラを前にして指揮をすることがあった。しかし、この音楽の「聖職者」は、いつも同じ真面目さで、音楽という「聖職」に臨むのだった。彼は仕事が終わったら、さっさと列車や飛行機に飛び乗って、すぐにでも家に帰ろうと思っている有名指揮者とは違っていた。演奏会を適当にするとか、交響曲のテンポを速くするとか、1楽章が終わるとほとんど間を置かずに次の楽章を演奏し始めるとかいったことを絶対に自分に許そうとしなかった。
ミシェル・シェヴィ著/扇田慎平・塚本由理子・佐藤正樹訳「大指揮者カール・シューリヒト―生涯と芸術」(アルファベータ)P366-367

不器用なまでの真面目さこそが、カール・シューリヒトの神髄。
特別なことを「何もしていない」彼の音楽は、すべてを削ぎ落した、臨機応変の芸術作品。聴衆に感動を与えるのは至極当然。ハ長調のフィナーレが、喜びの雄叫びを揚げる。

 

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