末廣誠指揮都民交響楽団第126回定期演奏会

台風24号接近。
マーラーの交響曲第7番。
「影のように」と指定された第3楽章スケルツォの、不安に色塗られた空ろな表情が、とても際立っていた。あれはまさに前後でシンメトリーを形成する楽章たちの橋渡しとなる、能舞台で言うところの橋掛りの役割を果たす楽章だと僕はあらためて思った。
ならば前半が此岸、そして後半が彼岸か?
否、逆か?
この際、どちらでも良い。少なくとも今日聴いた第3楽章スケルツォは、ピカピカに磨かれたのでない、どちらかというとどんよりした、曇った硝子のような鏡、まさに不安を煽る、とっておきの(諧謔の)鏡だったように思う。

驚いた。
アマチュアとは思えない技量。その上、いかにもアマチュアらしい熱量。強音は品の悪いくらいにがなり立てられ、轟く一方で、弱音は清潔感のある室内楽的響き。あるときは沈潜し、あるときは弾ける、マーラーのおそらく意図したであろう通りの大交響楽。
失礼だが、予想を覆す出来に僕は度肝を抜かれた。素晴らしかった。交響曲第7番は屈指の名作だとやっぱり思う。

都民交響楽団第126回定期演奏会~都民響70周年シリーズⅠ~
2018年9月30日(日)14時開演
東京文化会館大ホール
末廣誠指揮都民交響楽団
・マーラー:交響曲第7番ホ短調

第1楽章冒頭、主題を奏するテノールホルンの技術はなかなかのもの。全体を通して金管も木管も一様に素晴らしい出来。怒涛のファンファーレ攻撃に震撼した。
また、2つの「夜曲」の美しさ。特に、マンドリンやギターの活躍する第4楽章は、ほのぼのとした雰囲気を醸す安息の時間。
極めつけは終楽章!陽転する喧しい音楽が、過不足なく奏され、最後の大団円に向け、解放され往く様に感動した。

彼岸は此岸から見れば彼岸だが、彼岸にいればそこは此岸だ。
彼岸とはあくまで此岸からの視点。
前半2つの楽章から窺うと、終楽章のどんちゃん騒ぎはナンセンスに映るだろう。逆に、後半2つの楽章から俯瞰すると、第1楽章の哲学じみた神秘さは嘘くさい。その意味でマーラーは、真理を第3楽章スケルツォに意図したのだろうと思う。

末廣誠の指揮を初めて聴いた。手もとに譜面を置きつつも、一切開かず、暗譜で80余分を振り切ったこと、また、指揮台上での余裕綽綽の棒、そして、自らペンをとるプログラムの「曲目“快”説」での蘊蓄などから想像するに、マーラーは彼の十八番なのだろう。全体観と言い、見通しの良さと言い、納得の造形だったと思う。

音楽は終始うねった。
楽員は必死についていくなどというのはない。心から指揮者に、そして作曲家に共感し、全身全霊で音楽を奏でていた(ように見えた)。最初から最後まで刺激的。この音楽が、110余年も前に生み出されたという奇蹟。その場に居合わせることができて、本当に良かった。僕はあらためてこの作品が好きになった。

ところで、フルートの森創一郎さんが、プログラム中の「ごあいさつ」で、厳しくも楽しい稽古の積み重ねについて言及されており、とても納得する。

ただ、いくら稽古を重ねても、それだけでは演奏会はうまくいきません。世阿弥の「風姿花伝」の中に、「力なき因果」「座敷の内の因果」という言葉が出てきます。どんなに稽古を積んでも、お客様とのめぐりあわせ、場の空気など、時の運というものがあり、その運に恵まれなければ良い舞台は生まれない、という教えです。うまくいけばおひねりが、下手を打つと野次が飛んでくる。そんな、お客様との心の通った温かい舞台が、私は大好きです。
~当日のプログラム

音楽とはコミュニケーションなり。

 

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