デュ・プレ&バルビローリ指揮BBC響のエルガー協奏曲(1967.1.3Live)を聴いて思ふ

バック・カバーの1枚の写真(1962年1月2日撮影)こそが彼女のすべてを物語る。
何かに憑かれたようにチェロに向かう16歳のジャクリーヌ・デュ・プレ。
このモノクロ写真からすでに壮絶なオーラが漂う。

実姉ヒラリーの回想。

その日の夕方、ジャッキーと母が帰宅したとき、私は2階の自分の部屋にいた。
「ヒル、私が手にいれたものを見て!私、このチェロ(美しい深い茶色の1673年製ストラディヴァリウス)に恋しちゃったの」ジャッキーが叫んだ。私は階段を駆け下りた。居間には新しい「ばかでかい動物」がいた。
「聞いて、ヒル、こんな美しい音、前には出せなかったわ。しかも、これからまだまだよくなるんですって!」
ジャッキーが自分の世界に没入し全身全霊を捧げて弾き始めると、力強い豊かな音が私たちを包んだ。私たちは皆、ジャッキーと同じくらい新しいチェロに夢中になった。
ヒラリー・デュ・プレ/ピアス・デュ・プレ著/高月園子訳「風のジャクリーヌ—ある真実の物語」(ショパン)P128

デュ・プレが初めて愛器を手にした日の思い出は、どこの家庭にもある日常の描写だ。しかし、それは何だかとても愛おしく、リアルだ。
楽器と一つになり、楽器から芳醇な音を、しかしそれでいて厳粛な近寄り難い音を生み出す魔法を彼女はいつ手にいれたのだろう。少なくとも音楽に没頭するときの彼女には、それこそ「思考と感情の鎧」を脱ぎ去った、研ぎ澄まされた感覚しか残らないように僕には思える。それゆえに彼女は日常の生活という意味では(おそらく)危うかった。紙一重なのである。

十八番のエルガーを聴いた。
サー・ジョン・バルビローリ指揮BBC響をバックにしてのプラハでの実況録音は、録音は平板ながら、音楽はいつも以上に生き生きとし、まるで眼の前でデュ・プレが演奏するかのような錯覚を起こすほどの熱気だ。たぶん、当日その場に居合わせた聴衆は熱狂の渦に巻き込まれたことだろう(演奏中の静寂と終演後の爆発的な拍手喝采がそのことを物語る)。

人生の晩秋期にある男の気持ちを描写できる能力は、ジャッキーの最も驚異的で説明できない才能のひとつだったが、彼女は小さい頃から、自分の年齢よりはるかに先をいく心情を理解し、それを演奏に込めることができた。普通、私たちには、自分が経験したことのない気持を想像したり、物語ることはできない。だが、ジャッキーがチェロを弾くとき、未経験の気持ちでも自然に彼女の中に沸き上がるのだった。彼女はそれを愛し、率直に、恐れずに、それを演奏した。ジャッキーが望むところまで行くのを誰も止められなかった。そして、彼女は未踏の深さに到達した。無限の想像力と完全な自由をもった彼女を妨げるものは、何ひとつなかった。音楽の神髄を発見し、聴く人の心を直接貫く演奏は、いつも聴衆を魅了した。
~同上書P168-169

ヒラリーのこの言葉が、デュ・プレのエルガーのすべてだろう。過去に影響されず、自身の身体感覚すら忘れ、ただ純粋に音楽だけをとらえる天才。

・エルガー:チェロ協奏曲ホ短調作品85(1967.1.3Live)
・J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007(1962.1.7録音)
・J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調BWV1008(1962.1.26録音)
ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)
サー・ジョン・バルビローリ指揮BBC交響楽団

第1楽章冒頭チェロ独奏のカデンツァから、他の誰も真似のできない霊力に満ちる。しかも、そのエネルギーは、終楽章最後の音まで一切の弛緩なく続き、聴く者にある種の緊張を強いる。一言、金縛りだ。また、アタッカで奏される第2楽章もチェロの超絶技巧が相変わらずうなる。そして、第3楽章アダージョの、夢見る恍惚。それも悲観ではない、癒しの歌。さらに、すべてが統合された終楽章アレグロ,マ・ノン・トロッポでは、悲哀を乗り越え、ついに希望の光を獲得する作曲者の心情が見事に音化される(第1楽章の主題が回想されるコーダの劇性!)。

ちなみに、付録のバッハは、デュ・プレが17歳の誕生日を迎える直前(第1番)と、まさに誕生日当日(第2番)に収録されたもの。
彼女のオーラは特別だ。同じオーラを、僕はかつて、若き日のチョン・キョンファに見た。

 

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