宇野功芳指揮新星日響のブルックナー「ロマンティック」ほか(1988.1.16Live)を聴いて思ふ

秋雨。霧雨と冷気。
外気がどんどん下がる中、いよいよ「音楽」が恋しくなる。
初めて聴いたとき、僕はぶっ飛んだ。そして、初めて実演に触れたとき、かつてとほとんど変わることのない造形、解釈に度肝を抜かれた。忘れもしない、四半世紀前の新宿文化センターでのこと。

モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」序曲。
微動だにしない遅々たるテンポ、しかし、コーダ直前でメンゲルベルク並みに急激な加速をかける人工性、あるいは最後のティンパニの強打は、録音でこそ不自然さを免れないが、実際のコンサートでは決して流れは滞らなかったという事実。今やこんなにも破天荒で面白い音楽を創造する(再生する)人はいなくなったように思う。

ただし、「フィガロ」は序章に過ぎない。
メインのブルックナー「ロマンティック」の、原典の跡形ない自由勝手、自由気ままな創造に跪きたくなるくらい。デフォルメの極致。恐るべし。

宇野功芳オーケストラリサイタル
・モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」K.492序曲
・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」
宇野功芳指揮新星日本交響楽団(1988.1.16Live)

昭和63年正月のサントリーホール。多くの宇野ファンが集う、掟破りの奔放な、歓喜溢れる、期待を裏切らないマニアックなコンサート。「ロマンティック」は、限りなく「宇野版」というのに相応しい改訂版を加味した原典版。第1楽章の、とってつけたような強弱とテンポの揺れ。しかしながら、再現部の木管を軸にした主題の粘る美しさにはもはや声が出ない。

宇野氏は、批評家としてはヴェテランでもオーケストラの指揮の経験は浅く、演奏に、過度な意識や力みが見えてしまうのではないかと懸念されたが、実際は、その正反対で、音楽はいかにも自然に流れ、それだけにむしろ演奏家の初心の欲求を伝えてくれる。素朴なようだが、音楽のほうでおのずから身なりを整えて指揮者を祝福しているように感じられる。これは若い音楽家には到底期待することの出来ない世界である。
(遠山一行)

遠山一行さんの評が、なんだかとても皮肉っぽく感じられるが、確かに実演ではそうなのだ。今となっては宇野さんの生の演奏に触れることは叶わなくなってしまったが、わずか2度ながら彼の指揮姿を実際に見ることができたことは、僕の人生で、大変な幸運だったと断言できる。賛否両論あれど、もっとたくさんの方々に聴いていただきたかったとつくづく思う。

続く、心地良いテンポで前進する第2楽章アンダンテ・クワジ・アレグレットの官能。また、第3楽章スケルツォの堂々たる重低音と最後の激烈な(剽軽なほど滅茶苦茶な)ティンパニの轟音に思わずのけ反るも、トリオの静けさと歌に感動。常に何らかの仕掛けがあるのが宇野マジック。驚くばかり。
白眉は、大宇宙の鳴動、終楽章。目くるめく音響の変化と、常識を壊すほどの破天荒さ。それでいてブルックナーの面白みを決して潰さない、ギリギリのラインを保つ妙(いや、明らかにやり過ぎか?)。大団円に向けてドライブをかける宇野節の真骨頂。コーダの神秘性と暴れ馬のような劇性が圧巻(残念ながらこのCDには終演後の圧倒的な歓喜の拍手喝采は収録されていない)。

ちなみに、宇野さんは1991年刊行の「交響曲の名曲・名盤」で、自身のこの音盤を推薦盤として挙げられているのだから恐れ入る。

僕は現在出ている「ロマンティック」のCDはすべて物足りない。このアート・ユニオン盤は1988年に行われた「第1回指揮リサイタル」のライヴ録音であるが、第1回目の曲目にあえて「第4」を選んだのは、理想的な演奏を自分の手で実現したかったからである。
宇野功芳「交響曲の名曲・名盤」(講談社現代新書)P136-137

これにはさすがの僕も降参した。
この後、宇野さんは何度かこの手の名盤紹介本を出されるが、自身の録音を推されることはなかった。それはそうだろう。少なくとも宇野ファン以外に受け入れられる代物ではないのだから。

 

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