クレーメル独奏バーンスタイン指揮NYPのローレム協奏曲(1988.11Live)ほかを聴いて思ふ

ニュースを聞いたあの日、僕の内側に衝撃が走った。
あれからすでに28年が経過する。
たぶん、プライベートではとても厄介な人だったのだろうと思う。でも、だからこそ、あの、いかにも人間らしい(喜怒哀楽激しいが、それがまた好感度の)音楽をいつどんなときも奏でることができたのだと思う。彼の耳は俊敏だ、そして彼の鑑識眼はいつも正しかった。

脈打ち、息を吸って、吐く・・・収縮し、広がる。まるで宇宙のように。偉大な音楽はそうなるんだ。それぞれの作品はそれぞれのやり方でそうなるんだ。
ジョナサン・コット著/山田治生訳「レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー」(アルファベータ)P156

音楽とは(ジャンルを問わず)生命そのものなんだと思う。

君も知っているように、僕はずっとインドの音楽と舞踊が大好きだった。僕が19,20歳の頃、ウダイ・シャンカール・ダンス・カンパニーがボストン・シンフォニー・ホールで週に一回公演をしていたのを特に覚えている。音楽と、シャンカールと彼の一番の踊り手シムキー(彼女の名前は今でも覚えている)の踊り(それは指と腕と目のすべての微妙な動きとともにあった)の美しさは、信じられないし、完全に僕を興奮させ、僕はほとんどしゃべることもできなかった。
~同上書P162

興味深いのは、彼が、ダンス・カンパニーの音楽監督であるヴィシュヌダス・シラリと知り合い、クーセヴィツキー指揮するボストン交響楽団のコンサートに招いたときのエピソードだ。そのとき演奏されたのは、モーツァルトのト短調交響曲であったそうだが、シラリは、「これは小さい子どものための、赤ん坊のための音楽だよ。つまらない」と言って、ずっと眠りこけていたというのである。

そこで彼は考えた。

同じ地球に住んでいる人間が、同じ和音の法則や二本足などなどを前提としていても、お互い音楽について本当に語れないということがあり得るのか?それが時間の問題であり、新しい音楽に自分をさらしたり、さらされたり(それは外国語や外国の習慣にさらされるようなもの)の問題であり、それを、音楽を全く知らない敵としてではなく、”異邦人“としてでもなく、同じこの惑星に住む友好的な共存者として接する問題であると、僕は理解した。自分とは少し違う誰かと知り合うのは素晴らしいことではないかね?
~同上書P164-165

世界には何十億通りもの考え方があり、そのすべてが異なるのだということを受け入れたとき、世界は自ずと変わる。彼の、最晩年の指揮は、癖のある独特の解釈だったけれど、人間というものの神髄をとらえた本当に素晴らしいものだった。

・デイヴィッド・デル・トレディチ:管弦楽のための「タトゥー」(1986)(1988.11Live)
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
・ネッド・ローレム:ヴァイオリン協奏曲(1984)(1988.11Live)
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
・レナード・バーンスタイン:管弦楽のための協奏曲「ジュビリー・ゲームス」(1989)(1988.6&1989.4Live)
ジョセ・エドゥアルド・チャマ(バリトン)
レナード・バーンスタイン指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

クレーメルを独奏に迎えたローレムの協奏曲が素敵。いわば「夜の歌」。
第1楽章「黄昏時」から、ヴァイオリンの祈りの音が心に沁みる。アタッカで続く第2楽章「トッカータ—シャコンヌ」の超絶技巧に舌を巻きつつも(バックのティンパニの轟きがヴァイオリンを見事に支える)、第3楽章「言葉のないロマンス」での官能に目が覚める。そしてクライマックスとなる、「遅く」という指定をもつ第4楽章「深夜」のあまりの美しさ(陶酔するクレーメルの表情が目に浮かぶ)。間奏曲の役割を果たす第5楽章「トッカータ—ロンド」の激しい舞踏を経て、希望に満ちる終楽章「夜明け」は、弧を描くように第1楽章「黄昏時」につながる音調の名曲。クレーメルの仕事は本当に見事。

ところで、バーンスタインが亡くなるわずか3ヶ月前の来日公演のキャンセル騒ぎはいまだ僕の記憶に新しい。

問題となったのは、10日夜、東京・赤坂のサントリーホールでの公演。この日は、バーンスタインがブリテンの「4つの海の間奏曲」と、自作の「シンフォニック・ダンス」、ベートーベン「交響曲第7番」を、一人で振ることになっていた。が、同氏の要望で、大植英次が「シンフォニック・ダンス」を代演することが、開演直前にアナウンスされた。アナウンスが聴きとりにくかったり、入り口に告知がされていなかったことも重なり、怒ったファン40人前後が、深夜まで主催者側に抗議を続けた。
(1990年7月14日付、朝日新聞)

「ファンの失望残し、後味悪い結末」と題されたこの記事をあらためて読むと、企業の冠公演隆盛の時代で、今とは違い、告知や謝罪などもまだまだ曖昧だったことがわかる。何とも懐かしい時代だ。
ちなみに、亡くなって間もない11月の「音楽展望」で吉田秀和さんは次のように書かれている。

正直いって、私はまだ、先月死んだバーンスタインから解放されてなくて、何かにつけて彼のことを思う。といっても、いちど何かの席で紹介されただけで個人的接触などなく、思うのはすべて彼の演奏を通してのことである。
多くの人は、彼の指揮が主観に流れる傾向があったという。だが、主観のはっきりしない演奏とは何だろう。それに、よく考えてみると、いわゆる楽譜尊重の「客観的演奏」の時代は過ぎさりつつある。あれは大分前から、音楽の表面を美しく磨き立てるゆき方に席をゆずり、内容の空洞化の落とし穴に陥りつつあった。
(1990年11月20日付、朝日新聞夕刊)

バーンスタインは人々の心に残る音楽家だった。それこそ主観の固まりの、微動だにしない浪漫的な音楽が繰り広げられた。最晩年の自作「ジュビリー・ゲーム」は、あまり霊感を感じない作品であり、また演奏だが、それは、おそらくすでに体調不良にあった当時のバーンスタインの指揮のせいもあるのかもしれない。

 

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