ジョヴァンニ・アントニーニ指揮読響第211回日曜マチネーシリーズ

音楽の歴史は辺境から始まった。
世界は踊る。何事も周辺から生み出されるのである。そして、熟成されるとともに渦を巻くように中心に至る。

温故知新。
ヴィヴァルディもバッハも、もちろんハイドンもまったく新しい。何より作品そのものに無限の力が漲る。フォルムの美しさ、同時に、内なるパッションの発露。音楽には美神が宿るのだということをあらためて確信する。
ジョヴァンニ・アントニーニは、満を持しての登場らしい。指揮棒を持たず、メリハリの効いた、いかにもという音楽作りは、新鮮さという意味では今や常套となった方法だが、それでもアタックの効いた打楽器や速めのテンポで楽器を颯爽と唸らせる解釈に、端っから感激した。

衝撃のアントニオ・ヴィヴァルディ。本来ならもっと小さなホールでこそ相応しいバロック作品が、巨大なホールの中でも十分に鳴り、しかもどの瞬間もニュアンス豊かに奏でられる様に降参だ。「ドレスデン」協奏曲第1楽章アレグロの、日下紗矢子独奏のヴァイオリンを筆頭に、各楽器が縦横に織り成す音の綴れ織りにため息が出た。第2楽章ラルゴ・ノン・モルトは、指揮者が故意に外れ、オーボエ奏者とファゴット奏者の可憐で哀しい二重奏(この楽章の直前、第1楽章が終わるや客席からたぶんアントニーニを指して「ニュー・ヒーロー!」という叫び声があがったが、あれは事故なのか、それとも感極まっての発信だったのか)。その後の、終楽章アレグロの活気と勢い、すべてに喝采だ。
続くマンドリン協奏曲ハ長調の、抑制された静寂の美しさ。バロック音楽は、文字通り「音を楽しむ」ものだ。指揮者、オーケストラ、そして独奏者が一体となって躍動し、音を紡ぐ様に感動だ。アヴィタルのマンドリンの繊細さ、それでいて明朗さ。

ヴィヴァルディの生涯についてはいまだ謎が多い。彼の人生には数多の喜怒哀楽があったのだろう、残された幾千もの作品のいずれもが、ヴィヴァルディの、唯一無二の音を出していることが興味深い。

そして、バッハのチェンバロ協奏曲を、アヴィタル自身がマンドリン独奏用にアレンジしたマンドリン協奏曲ニ短調は、さすがにトゥッティになるとマンドリンは埋もれてしまう傾向にあったが、バランスのとれた、原曲に優るとも劣らぬ信仰に溢れる音調が終始支配していた。ここでも日下紗矢子さんは抜群に巧い。
ところで・・・、アヴィ・アヴィタルの超絶技巧の凄まじいアンコール(特にブルガリア民俗舞曲ブチミスの恍惚のカタルシス!)に、舌を巻いた。

読売日本交響楽団第211回日曜マチネーシリーズ
2018年10月21日(日)14時開演
東京芸術劇場コンサートホール
アヴィ・アヴィタル(マンドリン)
日下紗矢子(特別客演コンサートマスター)
ジョヴァンニ・アントニーニ(指揮&リコーダー)
・ヴィヴァルディ:ドレスデンの楽団のための協奏曲ト短調RV577
・ヴィヴァルディ:マンドリン協奏曲ハ長調RV425
・J.S.バッハ:マンドリン協奏曲ニ短調BWV1052(アヴィタル編)
~アンコール
・アヴィタル:プレリュード
・アヴィタル編曲:ブルガリア民俗舞曲「ブチミス」
休憩
・ヴィヴァルディ:リコーダー協奏曲ハ長調RV443
・ハイドン:交響曲第100番ト長調「軍隊」Hob.I:100

後半最初のヴィヴァルディは吹き振り。快活な第1楽章アレグロの前進性。そして、第2楽章ラルゴの憂愁と終楽章アレグロ・モルトの喜び。可憐なリコーダーが鳥のように鳴く。音楽は大自然の鏡であることを思った。

ところで、ハイドンの「軍隊」の、無駄のない簡潔な音楽の中に、時折垣間見せる革新性に僕は思わず唸った。アントニーニの解釈は、テンポは速めで音楽が流れ、決めどころでは怒涛のティンパニが炸裂する勇猛でありながら奇を衒わない正統なもの。何より生命力満ちる見事な音楽が鳴り響いたのである。第2楽章アレグレットでの軍楽隊のパートでの金管群の炸裂は無機的に陥ることなく素晴らしいもの。あるいは、高貴な第3楽章メヌエットを経て、終楽章プレストの堂々たる終結。

ちなみに、2度にわたる渡英は、ハイドンに、エステルハージ家に仕えていた頃の20年分にも匹敵する報酬をもたらしたのだと。自律から生まれた自由が、彼の作品をより一層深化,進化させたのだろうと思う。

 

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