John Coltrane “THE COMPLETE IMPULSE! STUDIO RECORDINGS” (1998)を聴いて思ふ

「彼らが私のやっていることを理解しているかどうかなんて、考えたこともないよ」とコルトレーンは言う。「大切なのは、感情のこもった反応だ。一瞬でも心が通じ合ったと感じられるなら、必ずしも音楽が理解されなくても構わない。私だって、Gマイナー・セヴンス・コードの意味を知るずっと前から、音楽を愛していたからね」。
「メロディ・メイカー」誌1964年12月19日号
クリス・デヴィート編/小川公貴、金成有希共訳「ジョン・コルトレーン インタヴューズ」(シンコーミュージック)P334

既存の壁を破り、求道者の如くただひたすら自らの音楽を追究する様。フリークが、いつの間にかはみ出した創造物についていけなくなり、むしろ反対派に転じていく様。
ただひたすら彼は音楽を愛した。彼が聴衆に求めるのは理解ではなく、感覚的なものだった。
僕は、ジョン・コルトレーンは、リヒャルト・ワーグナーの生まれ変わりではなかろうかという妄想にとりつかれる。

コルトレーンは、もちろん意識はしていまいが、まるで、ワーグナー晩年の「再生論」の実践者のようだ。有名な、たった一度きりの来日時の記者会見での言葉。

音楽的には、いや、人間としては・・・聖者になりたいですね(コルトレーンが笑い、アリスも笑う)。
~同上書P404

私にはそういう区別(アガペーかエロスか)はできません。結局はどれをとっても、イエスの愛であり、釈迦の愛であり、キリストの愛であり、あるいはそのすべてかもしれない(聞き取れず)。どれも愛には変わりがありません。すべての愛は、同じ一つの愛を言っているのです。すべてはそこから生まれるのです(聞き取れず)。進むべき道も、自分の作品への愛も、すべてが一つの愛の表れであると、私は考えます。
~同上書P404

どうやら彼は本気のようだ(実際に録音されたインタビューの声のトーンを聞けば、それはわかる)。しかし、彼の命はそれからわずか1年しか残されていなかった。結局、聖者にはなれなかったのである。

それ(菜食主義)は私の場合、どちらかと言うと、精神的な理由によるものです。野菜を食べていると物静かな人間になれるんですよ。癇癪をおこさなくなる。おかげで私はずいぶん落ち着きました。まあ、これは私の場合であって、皆さんもそうなるのかは分かりませんが(笑)。こういうのは経験から分かったことでしてね。今は苦労が減りました。衝動や感情を抑えられるようになったんです。それに体も肉をすりつぶす労力が省けて、エネルギーを溜めておけるんですよ。
(1966年7月9日)
~同上書P414

強いて言うなら違いは、ワーグナーは思考派であり、コルトレーンは感覚派であったということだろうか。
20年前にリリースされた、黄金カルテットの全録音を集めた「コルトレーンの神髄」(8枚組)。深化するコルトレーン、あっという間に常人が理解できない域にまで進み到るコルトレーンの記録とでも言おうか。

無調音楽の話に戻ると、自分ではよく分からないな。君の言うとおりかもしれない。たぶん、そうだろう。ただ、それを無調音楽と呼んでいいものかどうか、自分でも分からないんだ。それが今後どうなるかも分かっていないわけだから。ただ、自分の音楽は今後、無調ではなく、モーダルなものに接近していくと思う。確信はないがね。おそらくその二つは互いに接近したり、重なり合ったりして、「これはこれで、あれはあれ」と言い切れるようなものにはならないんじゃないかな。似て非なるものというか。結局、どんな曲も、その曲の本質に応じて、ある種の解釈を受けざるを得ないんだ。それこそ私がやろうとしていることであって、自分自身を—自分自身にすべてを委ねたい。曲が求めていると自分が感じるものだけに。
「ジャズ・オット」誌1963年12月号
~同上書P316-317

曲が求めていると自分が感じるものだけにすべてを委ねたいというところがいかにもコルトレーンらしく、かっこいい。

・THE COMPLETE IMPULSE! STUDIO RECORDINGS OF THE CLASSIC JOHN COLTRANE QUARTET (1998)

Personnel
John Coltrane (tenor saxophone, soprano saxophone)
McCoy Tyner (piano)
Jimmy Garrison (bass)
Elvin Jones (drums)
Reggie Workman (bass)
Roy Haynes (drums)
Art Davis (bass)

未発表テイク、未発表録音を含めた怒涛の8枚にどっぷり浸ることだ。
黄金カルテットがどれほど素晴らしいグループであったかは、エルヴィン・ジョーンズのインタビューを読めばわかる。

そういうこと(3,4時間で1枚のアルバムを完成)ができたのも、カルテットが一体化していたからだ。肉体的にも、理性的にも、そして感情面においてもわたしたちは共通するものを持っていた。こんなことはそれまでの人生になかったことだ。それは完璧な融合であり、無上の楽しみだった。演奏するのはいつだって楽しかったし、それはデコーディング・スタジオでもナイトクラブでも同じだったね。沢山の聴衆を前にしたときでも誰もいないところでも同じなんだ。音楽がわたしたちにとっては何よりのものだったからだ。
(ボブ・ブルメンタール/小川隆夫訳)
~MVCI-18001-8ライナーノーツ

盤を進めていく中で、コルトレーンのスタイルが、俄然未来的なものに移って行くことがわかる。今でこそわかるが、当時はたぶん、まったく他にない、新しい音楽に理解がついていけなかった公衆が多かったのだろうと思う。

実のところ、ジョンが最後のフレーズを吹き終えた瞬間、リズム・セクションはまだ演奏を続けていた。まるで曲が終わったのかどうか分からないという印象を受けた。2日目のコンサートでも、細切れになったいくつかのテーマを聴いて、聴衆は初日の晩に受けた印象を確固たるものにした。わずか1曲(もっと言えば、とても美しいテーマをいくつか織り込みつつ、45分近くかけて演奏した)しか聴けなかったという驚き以上に、音楽が流れていないという感じがした。初めも終わりもはっきりせず、他でもない聴衆を置いてけぼりにしていた。私が目にするエルヴィン・ジョーンズはいつも、明らかに輪をはみ出していた。2日目のコンサートが始まっても、ドラム・セットの前に立って、どう演奏すべきか決めあぐねている様子だった。つまりこれは火を見るよりも明らかな兆候だ。
「ジャズ・オット」誌1965年9月号
クリス・デヴィート編/小川公貴、金成有希共訳「ジョン・コルトレーン インタヴューズ」(シンコーミュージック)P368-369

エルヴィンが楽しめなくなったとするならもはやお終いだ。グループが終わりを告げる直前のエピソードは、とても悲しい。
楽曲が時を経るごとに長尺化し、異様な雰囲気の中で、まるで何かの儀式であるかのように演奏されたらしい。コルトレーンの中で、一体何が起こっていたのか?

信仰は私のすべてだ。私の音楽は、神への感謝を伝える手段なんだよ。
(1965年7月27日)
~同上書P372

するも聴くも、音楽は考えるものではなく、感じるものなんだとやっぱり思う。

 

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