ヤルヴィ指揮エーテボリ響のステンハンマル第2番(1993.9録音)ほかを聴いて思ふ

一昨日、ヘルベルト・ブロムシュテットが指揮するステンハンマルの交響曲第2番を観た(NHK交響楽団)。いかにも辺境の、しかし、濃密な美しさを秘めるその音楽に僕は痺れた。

清澄な空気感と、雄渾さを併せ持つこの音楽を、ブロムシュテットはインタビューで賞賛していた。あらためて耳にして思うのは、いかにも北欧的な内省と、冬から春にかけて大地から芽吹く植物の如くの生命力が感じられること。音楽が人々に与えるパワーとエネルギーは、実に計り知れない。
第1楽章アレグロ・エネルジーコの内なる熱情と明朗な歌謡性。続く、第2楽章アンダンテの芯のある晴れやかな癒しの気分に感応する。また、第3楽章スケルツォは、ブルックナーに影響を受けたであろう豪放磊落的野人さを秘めた都会的センスの踊り。そして、終楽章は、特に冒頭ソステヌートの宇宙的拡がりに興奮を覚え、同時に、主部アレグロ・ヴィヴァーチェの複雑でありながら崇高な音楽に瞠目するのである。

ステンハンマル:
・セレナーデヘ長調作品31(1911-13/1919改訂)(1993.11録音)
・交響曲第2番ト短調作品34(1911-15)(1993.9録音)
ネーメ・ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団

ネーメ・ヤルヴィの、信念貫かれた癒しの十八番。黙って聴いてみるが良い。
ヴィルヘルム・ステンハンマル、1927年11月20日死去。享年56。

一昨日、ヘルベルト・ブロムシュテットが指揮するベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を観た(NHK交響楽団)。颯爽とした言い回しの、それでいてさすがに老練の音楽は、特に終楽章「牧歌—嵐の後の喜ばしい感謝に満ちた気分」が神々しく、美しかった。

どんな場面を思い浮かべるかは、聴くものの自由にまかせる。性格交響曲—あるいは田園生活の思い出。あらゆる光景は器楽曲であまり忠実に再現しようとすると失なわれてしまう。田園交響曲。田園生活の思い出をもっているひとは、だれでも、たくさんの註釈をつけなくとも、作者が意図するところは自然にわかる。描写がなくとも、音の絵というより感覚というにふさわしい全体はわかる。
小松雄一郎訳編「ベートーヴェン音楽ノート」(岩波文庫)P10

1807年の最初のスケッチ帳に書かれた、ベートーヴェンの言葉は重い。理屈でもなく、言葉でもない、感覚の世界を作曲者は世に問おうとした。ベートーヴェンが悟りを得ていたことを表す一節だと僕は思う。

ヘルベルト・ケーゲル、サントリーホールでの最後の来日公演の記録。
おそらく、その場にいたら金縛りに遭っていたであろうマニアックな名演奏(バランスも節回しも独特)。

ベートーヴェン:
・劇音楽「エグモント」序曲作品84
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ヘルベルト・ケーゲル指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団(1989.10.18Live)

第1楽章「田舎に着いて晴れ晴れとした気分がよみがえる」から、淡々とした表情の、しかし、やはり濃密な力を内包する音楽が、一分の隙もなく奏でられる様。何だかこの時点ですでにケーゲルは、自身の死の日時を決めていたのではないかと思わせるほどの鬼気迫る様子が、空恐ろしい。第2楽章「小川のほとりの情景」での脱力の憂鬱感。第4楽章「雷雨、嵐」での金管群の強烈な咆哮も天晴れだが、白眉は何と言っても終楽章「牧歌—嵐の後の喜ばしい感謝に満ちた気分」!!中でもコーダの、急減速のかかった、幽玄の瞬間こそ命懸け、入魂のパフォーマンスであり、こんな演奏は後にも先にもない。

田園交響曲は絵画ではない。田園での喜びが人の心によびおこすいろいろな感じが現わされており、それにともなって田園生活のいくつかの感情がえがかれている。
~同上書P11

1990年11月20日、ヘルベルト・ケーゲル死す(ピストルでの自死だった)。享年70。

 

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