ブーレーズ指揮パリ・オペラ座管のベルク歌劇「ルル」(1979録音)を聴いて思ふ

シゴルヒ さあ、この女を客引きに出そう!わしはどうしても、クリスマスのプディングに未練があるんだ。それさえ食やあ満足なんだ。
アルヴァ 僕は、もう一回だけビフテキを食い、煙草が吸いたい。そしたらもう死んでもいい。―たった今、他人の吸いかけじゃない煙草の夢を見た。
「パンドラの箱」第3幕
フランク・ヴェデキント作/岩淵達治訳「地霊・パンドラの箱—ルル二部作—」(岩波文庫)P232

ワーグナーの言う、まるで人類の堕落を象徴するような台詞。
果たしてアルバン・ベルクのオペラの構成が、こういう台詞を抜粋であれ収録しているのか、勉強不足で僕は知らない。しかし、少なくとも原作者のヴェデキントの意図とはまったく異なるものではないだろうと半ば想像の上で書くことにする。

僕はここしばらくずっと「ルル」を聴いていた。
時間が許せば、とにかく「ルル」を聴いていた。

第1幕第1場から第2場への舞台転換の音楽など、まるで「トリスタンとイゾルデ」の裏側にあるかのような響き。

アルヴァ そのころ彼女は女としてはもう完全に成熟していたけれど、健康で快活な五つの子供みたいな様子をしていたんだ。あのころだって、僕より三つ若かっただけだけれど。ああ、あれからいったいどのくらい経つのかなあ。あの女は実際の人生の問題では僕より驚くほど勝っていたけれども、それでも僕が「トリスタンとイゾルデ」の内容を説明してやると、喜んで聞いていた。彼女はほんとうに人の話を聞くというコツが分かっていたんだよ。
~同上書P236-237

「ルル」は官能の物語でも、猟奇的な物語でもない。そんなものは外面の印象に過ぎない。ワーグナーにせよ、ベルクにせよ、あるいはヴェデキントにせよ、世の男は、特に芸術家は「理想の女性像」を描き、自身の嗜好を作品に託す。ルルの立場になったとき、ルルの思考の中に入り込んだとき、真実というものが見えるのかもしれない、そんな暗喩を秘めた物語なのである。

ルルの描写でわたしが意図したのは、ある女の肉体をその女の語る言葉を通じて描き出すことだった。彼女のセリフを書くとき、わたしは一字一句、それが若くてかわいい印象を与えるかどうかを検討した。したがってルルは、適役の人がやればとても容易で得な役のはずだ。ところが遺憾なことに、ルルはそれに向かない女優たちによって、ひどくねじまげたり、不自然に、役とは逆に演じられたので、わたしは「地霊」劇によって女性憎悪者という尊称を奉られてしまった。
~同上書P299-300

「ルル」にはそうやって勝手なイメージがついてしまった。ヴェデキントの「ルル」論を知るにつけ、彼が一般的に捉えられているような女性像として「ルル」を描こうとしていたのではないことがわかる。

ヴェデキントのルルを始原に戻してみると、それは女性の化身であり本体である。女性原理をあらわすといってもよく、実体のようなものが稀薄なのはそのためであろう。ルル自身は、男性社会の男性たちが、自分の願望する女性像を勝手に投影する鏡のような存在である。それゆえにルルは、ゴルから見ればネリ、俗物画家のシュヴァルツから見れば俗物的な目で見た始原の女性イヴ、シェーンから見ればミニヨンなのである。ルルは結果としてこういう男たちそれぞれの理想像とは違う存在であることを暴露し、男たちはその思い違いのために破滅するのであって、ルルが彼らを滅ぼしたわけではない。
~同上書P301

岩渕達治さんの解説に僕は目から鱗が落ちた。
なるほど、アンドレイ・タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」もこれで説明がつく。

・ベルク:歌劇「ルル」(フリードリヒ・ツェルハによる補完3幕版)
テレサ・ストラータス(ルル、ソプラノ)
ケネス・リーゲル(シェーン博士の息子・作曲家アルヴァ、テノール)
ロバート・ティアー(画家&黒人、テノール)
フランツ・マズーラ(シェーン博士&切り裂きジャック、バリトン)
ハンナ・シュヴァルツ(劇場の衣裳係&ギムナジウムの学生&下僕頭、メゾ・ソプラノ)
ヘルムート・パンプフ(公爵&従僕&侯爵、テノール)
ジュール・バスタン(劇場支配人&銀行家、バス)
イヴォンヌ・ミントン(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢、メゾ・ソプラノ)
トニ・ブランケンハイム(シゴルヒ&医事顧問官&警部、バリトン)
ゲルト・ニーンステット(猛獣使い、力技師、バス)
ジェーン・マニング(15歳の少女、ソプラノ)
アンナ・リンガルト(女流工芸家、メゾ・ソプラノ)
ウルズラ・ベーゼ(その母、メゾ・ソプラノ)
クロード・メローニ(新聞記者、テノール)
ピエール=イヴ・ル・メガ(召使、バリトン)
ピエール・ブーレーズ指揮パリ・オペラ座管弦楽団(1979.3, 4&6録音)

ブーレーズの表現は、官能をできる限り抑制し、ルルをより知的に音化しようとした絶対的試みである(知的生命体ソラリスのように)。歌手ともども、音楽はうねり、咆哮し、また沈潜する。勝手に翻弄される父性の虚しさと、自由に飛翔する母性の真の意味での優しさの狭間に、僕たち現代の抱える葛藤をベルクは目に見えるように表現しようとした。
ブーレーズは語る。

ベルクは、数字、象徴、文字に取り憑かれていた。そうした聞かれるための音楽はまた視覚的なものでもある。中世の音楽には、十字架の形をした象徴のように、その種の例は数多く存在する。作曲家は聴覚に専念する人間だが、それでも視覚の好奇心から逃れることはできない。ベルクにはそうした視覚的な次元が存在し、そしてその次元はとても強烈なものである。
「伝統と近代性」
ピエール・ブーレーズ/笠羽映子訳「ブーレーズ作曲家論選」(ちくま学芸文庫)P333

ピエール・ブーレーズの感覚の鋭さよ。

 

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