サロネン指揮スウェーデン放送響のダラピッコラ「囚われ人」ほか(1995.3録音)を聴いて思ふ

結局人は、どうしても思考に囚われてしまう生き物なんだと思う。

ルイジ・ダラピッコラはストラヴィンスキーの新古典主義とシェーンベルクの不協和な語法を統合して自らのスタイルをつくりあげたが、最初は戦争まえの多くの感じやすい芸術家たちと同じように、ムッソリーニの偽りの英雄的なポーズにわくわくさせられた。実際に、ダラピッコラはひじょうに熱心にファシズムを信奉し、作曲家のゴッフレード・ペトラッシが歴史家のハーヴェイ・ザックスに述べたところによれば、「私たち、つまり友人たちを困らせることがあった」。それから30年代に独伊の枢軸が形成されると、妻がユダヤ人だったダラピッコラは、ムッソリーニにたいする忠誠心を失い、他の多くの作曲家とは違って、自らの音楽ではっきりとその失望を打ち出した。
アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P337

どちらに転ぼうと、囚われていることに何ら違いはない。
それに、自由でありたいと願えば願うほど、その念がまた囚われとなってしまう。思考の恐ろしさよ。
サロネンの知性、サロネンの情緒、そして、サロネンの官能、趣きはまったく異なるけれど、「囚われ人」を聴いて、メシアンの「聖フランチェスコ」と同様の、篤い響きを思った。

ダラピッコラ:
・歌劇「囚われ人」(1944-8)
・囚われ人の歌(1938-41)
フィリス・ブリン=ジュルソン(ソプラノ)
ヨルマ・ヒュニネン(バリトン)
ハワード・ハスキン(テノール)
ラーゲ・ウェディン(バリトン)
スヴェン=エリク・アレクサンデルセン(テノール)
スウェーデン放送合唱団
エリク・エリクソン室内合唱団
エサ=ペッカ・サロネン指揮スウェーデン放送交響楽団(1995.3録音)

内なる哀感を、静謐な合唱とピアノ、打楽器で紡ぐ「囚われ人の歌」の妙なる美しさ。

影のある密かな美しさを持った合唱曲《囚われ人の歌》(1938-41)は、自分の考えを述べたがために、あるいはただあるがままの人であったために投獄されたすべての人々を代表して、メアリー・スチュアート、ボエティウス、サヴォナローラの言葉を用いている。「私を自由にしてほしいと私は乞い願う・・・重い地球の足かせを砕いた人は幸せだ・・・世界は重くのしかかり、敵は襲ってくる、でも私は何も恐ろしくはない」。ダラピッコラはこれらの祈りの最初の言葉が、シュトラウスの以前の台本作者、シュテファン・ツヴァイクの本のなかにあるのを見つけた。
~同上書P337

「怒りの日」が引用されるその音楽は嘆き、沈潜する。精神の内に奥にと拡がる分、僕たちの魂に不思議に響くのだ。何だかとても悲しくなる。

音楽はイマジネーションの飛翔を可能にする道具だ。
何が歌われているのか、どんな意味なのかは大事だが、それ以上に音楽そのものに感じることが一層重要だ。
ルイジ・ダラピッコラの祈り。
エサ=ペッカ・サロネンの知性。

 

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