イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン第5番&第8番(1968.9録音)を聴いて思ふ

音楽に仕える使徒として、それぞれの音楽のもつ美しさ、その本質をそこなうことなく、これを忠実に表現すること、わたしには、これしかできないし、またこれこそは、指揮者としての正しい道だと信じています。
(ハンス・シュミット=イッセルシュテット/津守健二訳)

実演では、時に激しい、泣く子も黙る演奏を披露した彼も、録音では端整かつ忠実な音楽を奏でることをモットーとした。この言葉が彼の音楽のすべてを語っていると思う。
標準的な、理想的なテンポの、そしてエネルギーは常に外に向く、絶対構築物ハ短調交響曲。
時間をかけて熟成された音楽は、一分の隙もなく、感動的な結末を披露する。シュミット=イッセルシュテットはベートーヴェンの僕となり、あくまで本質を抉り出す。

間もなくベートーヴェンには転機が訪れる。
対仏戦争の決定的な敗北の中、周囲がもろとも破壊を受ける中、彼はある意味覚悟を決める。

何か恐ろしい事件が起こっても、また狼狽したりしないだけの自分を天は与えてくれました。—数百万という人々が同じくしている運命のなかで自分のことを心配していられますか。
(1809年5月26日)
小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(上)」(岩波文庫)P178

彼の本性が目覚めた瞬間とでもいうのか。ついにベートーヴェンは開かれたのである。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67
・交響曲第8番ヘ長調作品93
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1968.9録音)

明朗快活なヘ長調交響曲は、第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・コン・ブリオから堂々たる(疾風怒濤の)翳りを示す。外観と内面の自己矛盾を秘めるこの傑作は、シュミット=イッセルシュテットの棒を得て、一層深みのある音楽として生まれ変わるのだ。続く、短い第2楽章アレグレット・スケルツァンドにおける脱力の解放感!また、第3楽章テンポ・ディ・メヌエットの大らかさ!

神よ!もしわたしが彼(ゲーテ)のようにあなたと一緒に居る時に恵まれていましたら、あなたは信じて下さるでしょうが、わたしはもっと偉大なものを創造していたでしょうに。音楽家は詩人でもあります。見つめた両眼を通して突如としてずっと美しい世界に身が移されたのを感ずることができます。そこではさらに偉大な精神的存在が彼と戯れ、本当に立派な課題が提起されます。
(1812年8月、テプリッツからベッティーナ・フォン・アルニム宛)
~同上書P320

そして、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの前進性!
録音から50年を経ているにもかかわらず、まったく古びない、永遠の生命力宿る音調。

おまえは、もう自分のための人間ではありえない。ただ、他人のための人間でしかありえない。おまえの幸福はおまえ自身の裡と、おまえの芸術のなかのほかにはない。—ああ、神よ!おのれに打ち克つ力をわたしに与えたまえ!わたしを人生にしっかり結びつけなければならぬものは、もう何もない。
(1812年)
小松雄一郎訳編「ベートーヴェン 音楽ノート」(岩波文庫)P15

 

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