オイストラフ、ロストロポーヴィチ、セル指揮クリーヴランド管のブラームス(1969.5録音)を聴いて思ふ

この協奏曲を和解の作品とみなすことができるでしょう。ヨアヒムとブラームスは、何年もの沈黙を経てふたたび言葉を交わしたのです。
(クララ・シューマンの日記)
西原稔著「作曲家◎人と作品シリーズ ブラームス」(音楽之友社)P177

両者の溝は、あくまでブラームス側の意地によるものである。
絶交状態にあったときも、ヨアヒムはブラームスの作品を評価し、演奏を続けていたのだから。それゆえに、ブラームスにとっての和解の協奏曲。いかにもブラームスらしい分厚い音の中で、2つの撥弦楽器が融け合う様に感動を覚える。

世の中を住みにくくするのは不要な「意地」だ。
どんなときも、素直に受け止め、素直に発することができるのなら、世界は本当に優しい。

第1楽章アレグロ冒頭チェロによるレチタティーヴォの堂々たる音、言葉に表し難い光輝なる深み。ロストロポーヴィチならではの歌。そこに、オイストラフのヴァイオリンが絡む瞬間の恍惚。一気に壁が取り払われ、すべてが一つに統べる様子は、他の録音にはないものだ。

・ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品102
ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団(1969.5.12-13録音)

再現部以降、音楽は一層儚く、自由に飛翔する。円熟期の、晩年のブラームスの音楽の最高の瞬間がここにある。何よりオイストラフとロストロポーヴィチの共演に、セル指揮クリーヴランド管弦楽団の緻密でありながら濃密かつ劇的な伴奏が付されるという奇蹟(冷戦時代にあってこその世界の統一!)。
そして、第2楽章アンダンテにある滋味。初演当時のクララやハンスリックの反応は、どちらかというと批判的だったが、ブラームスに未来はあった。

チェロとヴァイオリンを独奏楽器としていっしょにもちいるという発想は私にはけっして幸福なことには思えません。というのはこの作品はこれらの楽器には華やかではないからです。私にはこの協奏曲には未来はないように思います。
(クララ・シューマンの日記)
~同上書P177

華美を排除した、どちらかというと抹香臭い音楽には、それゆえの普遍性がある。あくまでヨハネス・ブラームスの熟練の手によって生み出された作品なのである。ちなみに、終楽章ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポは、オイストラフとロストロポーヴィチの技巧の見せどころ。徐に始まりながら、徐々に熱を帯びる音楽は、オーケストラのトゥッティの箇所で怒涛の勢いを見せ、喜びが弾ける。

間違いなく天下の名盤!

 

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