バックハウス&クラウス指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン第4番(1951.5録音)ほかを聴いて思ふ

息の合った巨匠の共演といえども、音楽の造形の趣きが見事に異なる点は実に興味深い。
戦後のウィーン国立歌劇場再建に当たっての音楽監督をめぐる二人の指揮者の暗闘。

カール・ベームは、独奏者の強みを引き出す能力に長け、協奏曲指揮者としての力量も右に出る者がいなかったほど。彼の演奏は、基本的に楽譜に忠実でありながら、芯のある、(特にライヴでは)熱のこもった表現を特長とするものだった。最晩年の超スローな(という印象を持った)演奏も、今になって聴いてみると劇的であり、また必然的な造形であったことが違和感なく理解できる。
一方、クレメンス・クラウスは、颯爽としたテンポで、きりりとしまった緊張感のある造形を基本とし、それでいながらウィーン的情緒と優雅さを印象付けるスタイルを終生貫いた指揮者だった。

その二人が伴奏を受け持つ、ヴィルヘルム・バックハウスのベートーヴェンが素敵。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1950.9録音)
・ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58
クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.5録音)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

一見オーソドックスに見えながら独自性を秘めるバックハウスの表現を包み込むように謙虚に佇むベームの伴奏。ハ短調協奏曲第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭のオーケストラの出が、これほどまでに喜びに溢れるのは、ベームのバックハウスへの敬愛の表れなのかどうなのか。何より第2楽章ラルゴ冒頭の独奏ピアノの悲しみ、それに寄り添う管弦楽の、想いのこもった憂いの音色。バックハウスとベームの一体。

光と風に包まれて わが愛もわが悩みも!—
しかし愚かな願いに追いやられ
魔法は逃げ去る 闇は深まり
大空の下 私はいつものように ひとり立つ。—
「夕べの幻想」
川村二郎訳「ヘルダーリン詩集」(岩波文庫)P34

孤独なベートーヴェンの苦悩。

耳は悪くなるばかりだし、腸はもとのままだ。そんなことが昨秋までつづき、その頃は何度も絶望の淵に沈んだ。その頃ある藪医者が、僕の病気には冷水浴が良いと薦め、またもう少しましなのが、例のドナウ温浴が良いといった。これが奇効を奏し、腹の方は良くなったが、耳は相変わらずで、むしろ悪くなったとさえいえる。この冬はまったく悲惨だった。
(1801年6月29日付、ボンのフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー宛)
小松雄一郎編訳「新編ベートーヴェンの手紙(上)」(岩波文庫)P71-72

そして、ト長調協奏曲では、バックハウスが躍る。
ここでのクラウスの指揮にはピアニストを扇動するだけの力がある。第1楽章アレグロ・モデラート冒頭からベートーヴェンの音楽が白熱し、ピアノは弾け、歌うのである。

静かにひびく 天上の
おだやかに渡る音に満ち
風吹き通う 神さびた
至福の住いなる広間。緑の敷物をめぐって香る
喜びの雲。はるかに輝くのは
熟れた果実 黄金花咲く酒盃に溢れ
整然と華やかに連なり
ここかしこ 平らかな床から
傍に高まる宴の卓。
「平和の祭」
川村二郎訳「ヘルダーリン詩集」(岩波文庫)P162

第2楽章アンダンテ・コン・モートの慟哭(バックハウスのピアノが沈潜する)、反して終楽章ロンド・ヴィヴァーチェの解放(ここはクラウスの独壇場)。
古き良きウィーンのベートーヴェン。バックハウスとクラウスの一体。

 

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