ロストロポーヴィチ&カラヤン指揮ベルリン・フィルのシュトラウス「ドン・キホーテ」を聴いて思ふ

共感覚の持主であるエレーヌ・グリモーは、何より共鳴を大事にする。「幸せのレッスン」の最終章は、何と「目が覚めると、正午だった。」というフレーズのみでの構成。エレーヌは、類い稀なる空想家だ。

また、東京都美術館で開催中の「ムンク展」のサブタイトルは、「共鳴する魂の叫び」だ。
共鳴に言葉は要らぬ。

「あら、私たしかに一度ここへ来たことがあるんだわ」
「だって金沢ははじめてでしょう」と竹宮は冷静に言った。「わかった。僕の内面がそっくりあなたの中に映りだしたんだ」
もし竹宮の言葉が当っているなら、金星には孤独はないのだろう。あれほど人間の孤独に苦しんだ父は、金星人になるべきだったが、不幸にして彼の故郷は火星だったのだ。暁子と竹宮は記憶をさえ共有していたのである。
三島由紀夫著「美しい星」(新潮文庫)P93

そして、60年近く前の三島の予言。
共感どころか、魂の共鳴がここにもある。

リヒャルト・シュトラウスが守銭奴であった(?)ことは、先の山田耕筰によるエピソードからも明白だが、仮にそうだとしても、シュトラウスの創造する音楽の隙のない官能性、あるいは、音による物語や人間心理の描写の巧みさ、そこから得られる感動を思えば、世間はそれだけのお金を払っても仕方がない、否、支払うべきだろう。

1897年作曲の、大管弦楽のための、騎士的な性格のひとつの主題による幻想的変奏曲「ドン・キホーテ」。ロストロポーヴィチの人後に落ちない圧倒的パフォーマンスと、カラヤンのシュトラウスへの憧憬と愛情を秘めた指揮、そして、ベルリン・フィルの精緻なアンサンブルの三位一体により創発された音詩。それは、セルバンテスの空想の、あるいは妄想の世界を見事に描き、まるで映画を観るかの如く刺激と感動をもって迫ってくるのだ。
ここにあるのも共鳴だ。

・リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」作品35
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
ウルリヒ・コッホ(ヴィオラ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1975.1.3-8録音)

艶やかな音色。少なくともシュトラウスに関しては、カラヤンの方法がすべて的を射るように僕は思う。そもそも音楽がよく出来ているのだ。余計な味付けなど一切不要で、その分外面を磨き上げることに注力すれば良い。その意味で、カラヤンのために作曲されたものばかりだと断言しても言い過ぎではなかろう。
8分40秒近い第3変奏「騎士ドン・キホーテと従者サンチョ・パンサの対話」のチェロとヴィオラの対話の美しさ。あるいは、ウィンドマシーンを伴った第7変奏「ドン・キホーテの空中騎行」の描写のリアルさ。
例えば、荒らしさと夢見るような穏やかな音調の対比が素晴らしい第10変奏「月の騎士との決闘と帰還」から終曲「ドン・キホーテの瞑想と死」にかけては、物語を超えた音楽がそこにあり、この音盤の聴きどころ。

音楽家は作曲家の楽譜を正しく読み、それを正確に再現するのが仕事。
しかし技術的な正確さだけではまったく不十分で、一番大切なことは音楽を通じ、作曲家の感情を伝えること。
その曲を作った時楽しかったのか?
もしかすると作曲家の「希望」が隠されているかもしれない。「落胆」かもしれない。
この感情を伝える仕事は誰にでもできるわけではありません。原則的に想像力を持っている人。そして理想を追い求める心を持っている人にのみできるのです。
(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)

 

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