アルゲリッチ、クレーメル&マイスキーのショスタコーヴィチ三重奏曲ほか(1998.5Live)を聴いて思ふ

あの夜のすみだトリフォニーホール。
ステージ上に座席が設けられ、80名ほどの音楽大学学生が着席していたその中央で繰り広げられた緊張感溢れるパフォーマンス。ミッシャ・マイスキーは、繊細そのものの態勢でショスタコーヴィチの三重奏曲第1楽章冒頭、静かに高音で挽歌を歌い始めたのだが、客席2階後方の扉が鈍い音を出したことで、宙を睨みつけ、一旦停止。間を置いて、その後奏でられた音楽は、見事に聴衆の息の根を止める、壮絶なものだった。

周知のように、この3人とも、まったく個性的なひきかたの持ち主で、しかもそれ表れかたはぜんぜんちがうから、楽譜どおりに行儀良くおさまった合奏になんかならない。テンポが奔放に揺れるアルゲリッチ、ありきたりの、いわゆるふくよかな音色というやつと手を切っているクレーメル、ともするとひとりで沈潜するタイプのマイスキー、それぞれが逸脱寸前まで個性を発揮しながらぎりぎりでまとまったトリオの「ここ」「あそこ」のなんと魅力的であったことか。
(林光)
~1998年5月25日月曜日朝日新聞

林光さんの評が的を射る。
それぞれの個性がまったく異なるゆえ生み出された一期一会の、ぎりぎりの、危険な音楽。あの日のことは忘れもしない。

・ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第2番ホ短調作品67(1944)
・チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲イ短調作品50「ある偉大な芸術家の思い出」(1881-82)
・キーゼヴェッター:タンゴ・パセティック
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
ミッシャ・マイスキー(チェロ)(1998.5.19&23Live)

亡き友イヴァン・ソレルチンスキーの思い出に捧げられたショスタコーヴィチの三重奏曲の慟哭の調べを、3人はまったく異なるベクトルで歌い上げる。冷徹なヴァイオリンに沈潜するチェロ、そして、縦横に跳ねるピアノは、それぞれの次元を超え、ぶつかり、昇華されるようだ。

イヴァン・イヴァノヴィチの死の知らせを聞いて私を襲った悲しみを、すべて言葉で表すことはできません。イヴァン・イヴァノヴィチは、私のもっとも親しくもっとも大切な友でした。私が成長できたのも、すべては彼のおかげです。彼なしで生きることは、あまりに辛すぎます。
ローレル・E・ファーイ著 藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチある生涯」(アルファベータ)P190

あまりに痛々しい。後年、ショスタコーヴィチは次のようにも打ち明けている。

新しい作品に取り組んでいると、いつも思うのです。イヴァン・イヴァノヴィチならどう言うだろうかと。
~同上書P190

失意のショスタコーヴィチの音楽が、3つの絶対的な力を得て、生と希望に満ちる音楽として再生されるのか。それにはアルゲリッチの縦横無尽に飛翔するピアノが肝。終楽章アレグレットが躍る。そして、聴衆の喝采が弾ける(そこに僕はいた)。

また、チャイコフスキーの、ニコライ・ルビンシテインの思い出に捧げられた三重奏曲の、特に終楽章コーダにおける第1楽章主題の回帰するシーンの何とも悲愴な音は、もはやこの世のものとも思われぬ壮絶な色。言葉にならぬ洪水。

3人はこのコンサートを彼らにとって特別な存在であった、今は亡きラインハルト・ポールセンに捧げることを決めた。
~当日のプログラムより

死に覆われた作品を、まるで死とは無縁のように奏でる天才たちの饗宴。以降、2度と聴く機会のなかった3人の奇蹟のパフォーマンスは、意外にもペーター・キーゼヴェッター(1945-2012)という現代ドイツの作曲家の、短いタンゴで締められた。今思えば、浮遊感がありながら、地に足の着いたヨーロピアン・タンゴがあの夜のコンサートの多大な緊張感を随分と和らげてくれたのだろう、2分と少しの音楽が何て優しく愉快に響くことか。

 

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