ボスコフスキー&クラウスのモーツァルトK.547(1955.12録音)ほかを聴いて思ふ

音楽を聴いてあれこれ夢想するのは、ディレッタントの愉しみのひとつだろう。
しかしながら悲しいかな、あれこれ思考が邪魔をし、余計なことを考えながら聴くのは、純粋に音楽に戯れるのに比して損をしているともいえる。考えることは人間の特権だが、言葉の、そして、認知の功罪がそういうところでも浮き彫りになる。

しかし、かれら(権力者)がたとえ精力絶倫だったと仮定しても、肉体の能力にも限度があるから、疲労を感覚した瞬間女の存在を意識の外に置く。性交に日夜没頭してきたその情熱と淫乱ぶりから一時的に逃避することで、もう独りの自分に戻るのだが、そこに憩いの安らぎを見出したとき、無意識のうちに美をまさぐっているのだ。アクティヴな酔いに賭ける自分と、パッシヴな酔いにひたるもう独りの自分とは、こういう権力者の場合均一の重さを持っているだろうが、パッシヴな酔いを逃避と解しても、そこにもまた深い休息のための強い欲求は働いているものだ。美的空間や装飾はそういう欲求がつくり出すもので、淫乱の限りを尽くす性交ならば野外の草叢のなかででも可能であり、美的空間や装飾などは必要ではない。
(松永伍一「花と鬼の宴—世阿弥の内景」
「モーツァルト18世紀への旅第6集『イドメネーオ』へ」(白水社)P144-145

権力者、すなわちパトロンだけがそうではない。彼らと手を組む有能な、天才的創造者も同じ穴の貉である。

権力者はそこで感覚を充足させ心を満たす美的空間を欲しがる。それを自分の思い通りに表現してくれる芸術家あるいは職人を探す。施主の側の要求が強ければ金銭に糸目はつけないから、芸術家の貧の意識を大いに刺激し、相互の契約が成り立つ。パトロンは「おまえの好きなようにつくってよろしい」とは絶対に言わない。自己中心的感性の持主だと考えた方がよい。しかも、性欲から来る疲れの反動として美を欲しがっているのだから、決して感性は乾いてはいないのだ。
~同上書P145

なるほど、さすがは詩人の視点。モーツァルトの天才は、当時の貴族、パトロンの存在によって生み出されたものであり、また彼らとの丁々発止のセンスのやり取りによって自ずと磨き上げられたものだということだ。

1788年のヴォルフガング・アマデウス。
様々なジャンルの濃密な音楽が、優しさも悲しみも怒りも超え、昇華され、ただ響く。
モーツァルトも精力絶倫の人だったのだろうとふと思った。

ウィリー・ボスコフスキーの自由闊達、奔放なヴァイオリンと、リリー・クラウスの心から感応するピアノのマジック。
K.526&K.547は、アンドレ・シャルランによるパリはサル・アディアールでの名録音(K.481はアントワーヌ・ドゥハメルによるムジークフェラインザールでの録音)。

モーツァルト:
・ヴァイオリン・ソナタ第41番変ホ長調K.481(1954.6録音)
・ヴァイオリン・ソナタ第42番イ長調K.526(1955.12.16, 19-23, 26/27録音)
・ヴァイオリン・ソナタ第43番ヘ長調K.547(1955.12.16, 19-23, 26/27録音)
ウィリー・ボスコフスキー(ヴァイオリン)
リリー・クラウス(ピアノ)

ヘ長調ソナタK.547。1788年7月10日完成。
音楽のあまりの美しさに恍惚。窮乏の中、モーツァルトの音楽は、かつての感性を取り戻したかのようにすべてが可憐。何よりボスコフスキーのヴァイオリンが、クラウスのピアノが、大いなる喜びの裡に鳴り響く。それにしても終楽章アンダンテ・コン・ヴァリアツィオーニにある、言葉では表せないくらいの「切なさ」「悲しみ」の表情に、僕はふと啄木を思った。

かなしきは
飽くなき利己の一念を
持てあましたる男にありけり
「一握の砂」~「我を愛する歌」
「啄木歌集」(岩波文庫)P20

はたらけど
はたらけど猶わが生活樂にならざり
ぢつと手を見る
「一握の砂」~「我を愛する歌」
~同上書P35

天才によって残された作品は、後世の人々の渇きを癒す。

 

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