自分を知ること

当たり前の話だが、人は「脳」で動いている。この世に生を享けてから、「脳」には環境や両親の教育、学校での出来事、体験などを通して様々な情報がインプットされる。プラスの要素もあればマイナスの要素もある。そして、後天的に作られた「脳」でもって人生を歩むのである。自分の「脳」に無意識であることはいかに恐ろしいことか。「自分を知る」ということは「自分の脳」を知るということ、すなわち、何が原因で今の自分自身になったのかを認知するということである。
「これは私の性格だからしょうがない」と、人は誰でも自らに言い聞かせ問題を棚上げする。しかし、認識している「性格」は正確に言うと「性格」ではない。決して先天的なものではないはずだ。それは、後天的に学習した「習慣化した癖」であることが多い。ゆえに、修正することもできるし、治すこともできる。要は、「自覚」が大切なのだ。

まず、今の自分自身の良い点、悪い点。伸ばすべき点、止めるべき点を整理する。そして、記憶を遡り、その原因となったであろう幼少時の「原体験」を探る。大なり小なり必ず思い当たる「体験」や「事実」が存在するはずである。そして、過去のその事実から逃げることなくどっぷり浸るところから始めるのである。さらに、その原因となった相手が身近にいるなら、今からでも遅くない、ゆっくりと気持ちを落ち着け、洗いざらい思っていること、感じていることを全て伝えることである。そうやって心の奥底に溜まっている「感情や思念」を整理し、掃除をすることがとても重要なのである。

ベートーヴェンの創作活動の頂点をなす晩年の大作、交響曲第9番「合唱付」。ご存知のように、終楽章にシラーの頌歌「歓喜に寄す」からの詩を引用した、後世の作曲家誰もが影響を受けたといわれるほどの声楽付大シンフォニーである。そもそも楽聖がこの詩に曲をつけようと閃いたのは二十歳過ぎの頃のようだ。「第九」が実際に陽の目を見たのが作曲者54歳のときだから足掛け30年に亘り、頭の片隅にこの頌歌が明滅していたことになる。そして、「歓喜の歌」のあの有名なメロディ。日本人なら、それが「第九」の一部だと知らずともあのメロディは知っている人は多いことだろう。1822年頃になってやっと登場するあのメロディの萌芽、原型はすでに1795年に書かれた「歌曲」に登場する。

ベートーヴェン:歌曲「愛の答え」WoO.118
ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
イェルク・デームス(ピアノ)

貴女が私を愛して下さって
私の価値を少しでも認めて下さるのを
知っていたなら
そして私の挨拶に対する
貴女の感謝を
百分の一でも感じられたら
そして貴女の唇がキスの交換を
喜んですることを知っていたなら

そうしたら、有頂天になって
私の心臓は炎に溶けてしまうでしょう
私の命と身体を貴女が求めても
私は拒むことは無いでしょう!
返答の想いは想いを高め
愛は返答の愛を暖め
灰の中の小さな火の粉が
大火災まで燃え上がる
(ゴットフリート・アスグスト・ビュルガー詩)

子どもの頃受けた心の傷を癒し、浄化するためにベートーヴェンは第5交響曲を書いたといわれる。「苦悩」から「勝利」へという図式は幼年期の悲惨な原体験がその根底にあるようだ。まさに「苦悩」を解放し、そして、地上界の友愛から神々の喜びの理想に至るという第9交響曲。フィナーレのテーマの原型が既に上記の歌曲に見られるところが面白い。やっぱりベートーヴェンは臆病だ。

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