自然の理

人間のことを「小宇宙」と呼ぶ。その人間が住んでいるこの地球は「大宇宙」のほんの一端に過ぎない。そして、身の周りで起こっている様々な問題は、人間が自ら引き起こした行為の結果である。

先だってから「調律音楽」の勉強をしていて、「1/fゆらぎ」という物理学の概念を知った。自然界にあるものは、すべてが一定の規則正しさの中にあるのではなく、不安定にゆらいでいるということらしい。身体のリズムも波の音も鳥の鳴き声もすべて微妙な「ゆらぎ」の波形を持っているということだ。もちろん、音楽の場合でも、規則正しい一定のビートを単純に刻み続けることは不可能であり、そういうものはかえって不快感を催すらしい。多少の「遊び」のある微妙な「ゆらぎ」の中に身を委ねることで、人間の身体はリラックスし癒されるということであろう。

古今東西あらゆる音楽の中でも西洋古典音楽こそその宝庫であり、中でも様々な楽器が活躍する交響曲はその傾向が強いように僕は思う。

モーツァルト:交響曲第29番イ長調K.201(K.186a)
クリストファー・ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団
ヤープ・シュレーダー(コンサート・マスター)

精神的に強くない人たちは例えば自分自身のコンプレックスをばねに張り詰めた風船のように頑張る。しかし、「遊び」の部分がないのでいつ破裂するかわからない危うさを抱えている。そして、ストレスによる心身の疲労や病気というものを代償にある意味「社会的な成功」を得ているようなものである。過剰なストレスで心身を病む人たちは、おそらくこの「曖昧さ」が不足しているのかもしれないと、ふと考えた。何でもキチンと計算し、計画通りに動き、規則正しく生きることは重要かもしれないが、一方、時計すら無かった時代は「太陽の動き」をみて人間は生活をしていた。陽が昇ると目覚め、陽が沈むと眠りに就く。当然、時期によってその絶対的「時間」は変動する。その場その状況に合わせて人間の身体は順応する。大宇宙の波動と小宇宙の波動は一体。それが「自然の理」なのだ。この「自然の法則」を無視して真の「人間らしい幸せ」を得ることは不可能だろう。

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