自分を律することと和の精神

合気道仙元館道場に入門した。これから可能な限り週3回午前7時から1時間の稽古に出るつもり。「和」というものを武道という別の角度から体感的に学んでみようという試みである。ちなみに、今朝道場からの帰りがけ高島先生にお声かけいただき、少々お話をさせていただいた。先生は「和」を実現するには自らを律しない限り無理だとおっしゃる。地に足を着けて自分の足で一切のぶれなく立つことだと。それなくして他者との融合はあり得ないということらしい。なるほど、人間力の根本を違った視点から教わったようで即座に合点が行く。いずれにせよ自身でその本質を感じてみない限りはどうにもならないと悟り、早速実践に移す。気合い!!

今日は徹底的に歩いてみようと決めていた。自宅から新宿へ、そして新宿から原宿へ・・・。
3ヶ月ぶりに明治神宮を訪れた。雲ひとつない晴天の中、本殿では麗しき雅楽が流れ何やら儀式が行われている。珍しい場に遭遇したのだろうが、見物もそこそこに神宮を後にした。
散歩は続く。渋谷を通過し、打ち合わせの場所である恵比寿まで遂に歩く。おそらく正味2時間強。歩くときも地を確かに蹴り、姿勢とバランスを意識する。

世の中が様々変化する中、自分の本質というのはほとんど変わらないものだと考えた。あの頃の自分と今の自分と、そして明日の自分と今の自分と、何がどう変わるというのか?それは決して悲観的な意味ではなく、変わらずともすべては順調に経過してゆくということ。一見無駄なことも、その時は悲痛だと思える体験も必要にして必然だったことが「その時」を迎えればわかる。よって、どんな人間関係においても、うまくいこうがいくまいが、「あなたはあなたであり、僕は僕である」ということをただ認識し、受け容れること。

ところで、モーツァルトの音楽は変幻自在(特に、父や故郷の呪縛から逃れ、真に自立した後の音楽は神々しいばかり)。愉悦の中にふとした哀しみがあり、明るい笑顔の中にもふとした慟哭の表情が垣間見える。そこにこの天才の天才たる所以があり、いかに神の子と言われようともアマデウスもひとりの人間だったんだということがわかる。そのことが真に理解できた時にこそモーツァルトの音楽を本当の意味で享受できる。

モーツァルト:クラリネット五重奏曲イ長調K.581(1959.2録音)
ブラームス:クラリネット五重奏曲ロ短調作品115(1965録音)
ジャック・ランスロ(クラリネット)
バルヒェット四重奏団
ミュンヘン弦楽四重奏団

クラリネットのための不滅の2曲。モーツァルトのそれは本当に儚い。しかしそれは単に押して壊れそうな代物でない。確かに自立し、それであるがゆえの正直な期待と不安が入り混じる人間の音楽。繰り返し聴くにつれ、これはおそらくクラリネットという楽器がもつ魔術なのだろうと確信した。同じ作曲家の協奏曲にもそういう性格が聴いてとれるし、何より最晩年になってこの楽器のための作品を書かざるを得なかったという状況に置かれたという事実がその証拠のようにも思える(もちろんクラリネットという楽器が歴史的に後発のものだったということもあるのだけれど)。
ようやくモーツァルトのK.581の意味が理解できたかも。


3 COMMENTS

雅之

こんばんは。

某社入社筆記試験 SPI2での設問より(制限時間 10分)


「ぶれてもいい、まったくかまわない」という信念がぶれていない人は、ぶれているのでしょうか?ぶれていないでしょうか? 最もふさわしいものを選べ。

ア ぶれている
イ ぶれていない
ウ どちらでもない
エ どうしようもない

※クラリネットのための不滅の2曲については、まったく同感です。
私は、R・シュトラウス最晩年の傑作、オーボエ協奏曲にも、モーツァルトのクラリネット協奏曲やクラリネット五重奏曲と似たような境地を感ずる時があります。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
答はイですね。
そう言い切れる人はぶれておりません。

ですよね?(笑)

>R・シュトラウス最晩年の傑作、オーボエ協奏曲にも、モーツァルトのクラリネット協奏曲やクラリネット五重奏曲と似たような境地を感ずる時があります。

同感です。

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