マゼール指揮ウィーン・フィルのマーラー第9番(1984.4録音)を聴いて思ふ
音楽は記憶を喚起する。
はじめてそれを聴いたときの風景。あるいは、それにのめり込んで繰り返し聴いたそのときの感情。
たぶん僕は、無意識にロリン・マゼールを随分長い間避けてきたように思う。
あえて好んで聴くことはなかったのだけれど、何となくウィーン・フィルとのマーラー全集をひもといて、ひとつひとつ丁寧に聴いてみると、そこにあるのは情感過多というほどの、浪漫豊かな、しかし少々恣意性すら感じさせる演奏が目白押しで、録音から30余年を経た今こそ、実に面白く、また興味深く聴けることがわかった。何て素敵。
たぶん、僕の意識も随分変わったのだと思う。
1912年には、妻が肺尖カタルを病んで、この年と、改めて翌々年との二度、数カ月間スイスの高山で暮さなければならなかった。1912年の5月から6月にかけて私は臨時入院患者という格で、3週間、ダヴォスの妻のそばで暮しながら、あの不思議な環境の印象を集めた。(・・・)それらの印象から、ヘルゼル山地を背景とする簡潔な短編の観念が出来上がった。この短編も、何とかして稿を続けたいという誘惑を感じていた詐欺師の告白の仕事の間に、手早く挿入しようというつもりであったし、前に書き上げた短編「ヴェニスに死す」の退廃の悲劇に対する茶番劇にしようという考えでもあった。今度は、死による魅惑、秩序を基礎として秩序に捧げられた生活に対して極端な無秩序が占める勝利を、罵倒して、けなして、滑稽なものにしてやろうというつもりだったのだ。
~辻邦生「トーマス・マン」(岩波書店)P179