オペラの最近のブログ記事

早起きは三文の得

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現在第145巻まで刊行されているユーラシア・ブックレットは、「ブックレット発刊によせて」というあとがきによると「ロシア・ユーラシア諸国に関する多面的な情報を提供するだけではなく、日本ではあまり知られていないこの地域の広くて深い世界を楽しんでいただくこと」をも目的としているそうで、手軽に読め(1冊につき60ページほどの小冊子)、しかも内容が相当に充実しているという点でかっこうのシリーズだと思う。
第115巻「ムソルグスキー~『展覧会の絵』の真実」(一柳富美子著)にざっと目を通したが、これまであまり知られることのなかった作曲家の私生活や名曲「展覧会の絵」のまさに「真実」が語られており、滅法面白い。中で、第3章は「ロシア・オペラの最高峰『ボリス・ゴドゥノフ』」と題され、この途轍もなく巨大な名作について、その成立や初演の経緯、あるいはムソルグスキーがここで何を語りたかったのかなどわずか10ページほどで簡潔にまとめられている。

あわせて3つの稿をもつ「ボリス」であるが、1869年に生み出された初稿はマリインスキー劇場から、女性が登場しないこと、物語が特異で陰惨であること、さらには音楽があまりにも新し過ぎることなどを理由に上演許可がおりなかった。それを受け、作曲家は即座に改訂・補足を加え第2稿を発表、1874年1月27日にようやくこれが件の劇場にて上演されることになるのだが、そもそもなぜムソルグスキーは許可も下りないような型破りのオペラを書いたのか、その理由が一柳富美子氏によって次のように解説されている。
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もう30年になるが、日本フルトヴェングラー協会に一時期入会していた。インターネットなどない、情報を集めるのに一苦労だったその時代においては、そういうコアな活動団体や「レコード芸術」などの月刊誌は貴重な情報源であり、毎々送られてくる月報を楽しみに待っていたものだ。協会から頒布されるアナログ・レコードをなけなしのお小遣いで買って繰り返し聴いた。以前採り上げた1949年6月10日のヴィースバーデンでの実況録音盤もその頃に購入したものである。当日のプログラムはプフィッツナーの歌劇「パレストリーナ」から3つの前奏曲とモーツァルトの第40番交響曲、そしてブラームスの第4交響曲という魅力的なものであった。フルトヴェングラーの第40番はEMIのスタジオ録音、例の快速テンポの演奏が有名だが、当時はフルトヴェングラーならもっとデモーニッシュで心の奥底に響くような音楽を創れるだろうにと失望した(現在の僕の評価はちょっと違う。これはこれで素晴らしい解釈だと思えるようになった)。ブラームスの第4は、これも48年のライヴ録音がことのほか有名で、テンポが伸び縮みする独特の解釈にその当時はどっぷりはまり込み、特にフィナーレのパッサカリアのコーダに向かって突進してゆく推進力に度肝を抜かれ、興奮したものだった。
それが別の日のコンサートの演目で(しかも協会の割合に音質の良いレコードで)いっぺんに聴けるのだから、頒布の報せをみて見逃さない手はなかった。もちろん手に入れるなり繰り返し聴いた。モーツァルトもブラームスも良かった。心底感動した。

さまよえるオランダ人

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所用で巣鴨に出掛けた帰りの車中で20年前のことを思い出した。当時、僕はイベント業に携わっていたのだが、札幌で開催されるあるイベントで担当者が都合悪くなり、急遽単身でそのパーティーの現場責任者として借り出された。ともかく前日からの徹夜での仕込みに立会い、当日のパーティーを無事見届けるようにという命令だった。社会人歴の浅いひよっこだった僕は、ほとんど初めてだった「現場」の熱気や聞き慣れない専門用語に右往左往しつつも前日の準備を乗り切り、何とか無事に終えることができるだろうと半ば安心していた。しかしながら、高を括ったのも束の間、実際のところは本番でのバンドの出のキュー出しをミスり、結果クライアントから大目玉を食らうという大失態を演じてしまった。以降のそのクライアントとの仕事にも支障を来したようだから、随分反省した。

何が問題だったのかというと、単純な確認ミスである。初めての現場で、しかも初対面の方々との仕事なのだから、面会するなりいろいろとコミュニケーションをとっておけば良かっただけの話なのだが、どういうわけかそのあたりを怠ってしまった。今となったら考えられないような凡ミスだが、25歳の僕はまだまだ未熟だった。でも、そういう経験からいろいろなことを学び、人って成り立ってゆくものだから特に若いうちはどんどん失敗すれば良いのだけど・・・。

失敗は成功のもと

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本日の授業では、エントリーシートの書き方について一通り講義をした後、実際に「攻略テスト」なるものに挑戦してもらった。このテストは添削が入れられ1ヶ月後に学生本人の自宅に返送される。いわゆる本番ではないのだから、とにかく与えられた時間内にスペースを埋めることに重点を置き、ペンを進めればいいのに、大半の学生が下書きに時間をとられたり、考えすぎていて、一通り完成できた学生は2、3割だったんじゃないだろうか。

どうやら失敗を怖れる癖がついてしまっているようだ。若いのだから、まずはぶつかってみて、どうなるのかを体感してみればいいのに、じっとして動かない。テストとなると良い点を取らなきゃという思考がついつい働いてしまうのかな・・・。

「失敗は成功のもと」というとおり、「失敗」するから人は成長するのである。そして二度と同じ失敗を繰り返さないように努力すれば良いだけだ。
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火曜日から独り暮らしを満喫している。と言いたいところだがさすがに寂しくなってきた。つい数年前まで何十年も独り暮らしだったくせに、ひとたび卒業してしまうとわずか数日のことが耐えられなくなるものなのか・・・。意外に「屁たれ」である(笑)。

とある友人から相談を受けた。彼女はまだ駆け出しのコピーライターである。J-Waveのある音楽番組の原稿を今夜中に提出しなければならないこと、内容がクラシック音楽の作曲家についてであること、そういう理由から原稿の事実確認をしてくれないかという話。

そんなことなら朝飯前。ということでざっとチェックしてみた。「ヴィヴァルディの冬のよろこび」、「ドビュッシー 子供の領分、雪は踊る」に混じって「人生の冬に ブラームス」という一節。ちょうど先日の成城での「愛知とし子×近藤恵三子コラボレートコンサート」で採り上げられたブラームスの間奏曲作品117-1がテーマのようだ。

1891年、58歳のブラームスは創作力の減退を感じ、一通の遺書を認める。そしていつものように避暑のため温泉地バート・イシュルを訪れ、ひと夏を孤独に過ごす。ちょうどその頃、ブラームスは姉のエリーゼを亡くし、名実共に天涯孤独の身になるのだが、ここでもうひとつ重大な事件―誤解により生じた、愛するクララ・シューマンとの長年にわたる友好関係に亀裂が入るという事件が起こるのだ。
それはロベルト・シューマンの交響曲第4番のオリジナル稿の出版をめぐってのことだった。クララからオリジナル稿を託されたブラームスは即座に出版を計画したが、実はクララにはまったくそのつもりがなかったのである(ブラームスはクララの同意を得たと誤解していた)。そして、同年この稿が出版されたことを耳にしたクララは、ブラームスがシューマンの名誉を汚すことで利益を得たと激怒し、非難したという。
その後、ブラームスはクララとの信頼関係の修復に努め、次のように手紙を送っている。
「40年もの間、忠実にお仕えしてきて、『別の不幸な経験』であるのはとても辛いことです。・・・しかし、今日もう一度繰り返し述べさせてください。あなたとご主人が私の人生のもっとも美しい経験です。その経験にはもっとも豊かで、もっとも気高いものすべてが表されています」
これに対し、クララは1892年9月27日付次のように返答する。
「ヨハネス、最新の《ピアノ小品集》(この小品集は作品117ではなく、作品118と作品119のことのようだが)に免じて、私たちの友情を元の鞘に収めましょう」
「作曲家◎人と作品 ブラームス(西原稔著)」(音楽之友社)からの引用を含む)

ヘンゼルとグレーテル

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4人になったドリフターズのCMを観て、いやりや長介がいなくなった後の彼らってどういうバランス関係になっているのかとふと気になった。年長という点からいえば高木ブーだろうし、芸歴という点から見たら加藤茶なのかもしれないし・・・。でも、どうみてもバカ殿に扮している志村けんが一番人気で、実は最も力を持っているのかもしれないなぁ、などと考えてみた・・・。
1980年代初頭に「オレたちひょうきん族」がブームになって以降、土曜日の午後8時は専らフジテレビ(関西テレビ)にかじりつくようになったが、少なくとも70年代、小中学生の頃は「8時だよ!全員集合」を欠かさず観ていた。PTAなど教育の現場からいわせるとワースト番組のトップに必ず名を連ねていた悪名高い人気番組だが、最高に面白かった。

当時(1974年)、ドリフターズの付人だった志村けんが荒井注の代わりに加入することになったその時のシーンは不思議によく覚えている。荒井注の「何だ、馬鹿やろう!」というギャグが滅法好きだった少年にとって、何とも頼りなげな青年だなと前任者が抜けたことが残念でならなかったのだが、その後の活躍をみてみると、志村けんこそがドリフターズを支えた立役者だったことがよくわかり、ある意味起こるべくして起こった交代劇だったことが理解できる。
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先日、女優の大原麗子さんが亡くなった。そういえば、そういう人がいたなと思い出したのだが、すっかり忘れていた。「去るもの日々に疎し」ではないが、メディアに顔を出さなくなるとどれほどの大女優だろうと一般的には忘れられてしまうものなのだろう。
ギラン・バレー症候群という難病に冒され、長い間闘病生活を送っていたとのことだが、病気よりも独り暮らしの、結果、「孤独死」だったことの方が気になる。

我が母も筋ジストロフィーを患い数十年という年月が経過するが、(もちろん手足の自由は利かなくなって車椅子生活は余儀なくされているものの)普通に会話もでき、特に悪い箇所もなく元気に日々過ごしているのをみると、人間というもの「独りきり」になることが寿命を縮めてしまうのではないのかとも思う。身体の自由が利こうが利くまいが、誰かのために「存在しているのだ」という意思が大切なのである。そして、誰かが「いてくれるから」また自分自身も元気が漲る。やっぱり、人はお互いにエネルギーをチャージし合って生きているのだろう。大切な人の存在こそ何よりも重要なことである。
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今日のような気だるい夏日にはイタリア・オペラはぴったりである。朝からヴェルディのオペラ全曲盤をBGMに、あれこれ考えた。

生涯で28ものオペラを作曲したジュゼッペ・ヴェルディは、多くの作品で大絶賛を受け大成功を収めたが、中にはこけてしまった作品も当然ある。特に初期、第1作目の『サン・ボニファーチョ伯爵オベルト』のそこそこの成功により、スカラ座からオペラ・ブッファ(喜劇)の委嘱を受けたものの、不運にも家族の不幸が重なり(長女に始まり、長男、そして挙句の果ては妻まで病気で亡くしてしまうのである)、仕事どころではなく、急かされてようやく発表にこぎつけたものの、次の『一日だけの王様』は、聴衆から野次り倒されて、完全な失敗作に終わった。そりゃそうだ。いくら天才といえどもそんな意気消沈しているときに、「喜劇」など書けようはずもない(これら初期のオペラに関しては未聴なので、作品を云々することはできないが・・・)。

バブルの頃の思ひ出

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諸事情により愛知とし子のセカンド・アルバム「bathing in the moonlight(月光浴)」の編集作業を再度余儀なくされ、昨日と今日「スタジオ缶詰」につきあった(笑)。絶対音感もなく楽譜も読めない僕が何か具体的に役に立つこともないといえばないのだが、感覚的には良し悪しはわかると自負しているので、まぁ同伴した甲斐はあるだろう。例によって楽曲解説も僕の書き下ろしだし、アルバム・タイトルも僕の発案だし・・・(自慢・・・笑)。1ヶ月後には無事リリースできると思うが、ホームページ上では予約を受け付けているので、皆様ぜひご購入を(収録時間ぎりぎりまで詰め込んだ、まさに「癒し」の音楽集です)!

ところで、ここに一冊のカタログのような分厚いプログラムがある。
アサヒビール創業100周年記念「アレーナ・ディ・ヴェローナ『アイーダ』東京公演」。
1989年(平成元年)12月8日(金)から14日(木)にかけて国立代々木競技場第1体育館で開催された野外オペラの引越し公演に招待され(僕が行ったのは14日の公演)、当時(今も決して得意ではないが)イタリア・オペラに関して右も左もわからないまま、その大仰で派手なスペクタクルに度肝を抜かれながらも、居眠り半分でヴェルディの舞台を楽しませていただいたことを思い出す。後数年もすればバブルが弾けることなど想像すらできなかった平和で能天気な時代。企業のメセナ活動が流行し、主催や協賛欄には有名大企業の名が連なる。当時、僕はある放送系のイベント会社でコンサートや展覧会などのプロデュース業に就いていた。しかもまだ社会人歴2、3年の若造である。配布されたプログラムもさることながら、その舞台たるや大変なお金のかけようだった。
20年前、世の中の人々がみな浮かれていたあの時代。東京の夜空に浮かぶ月や星の明かりをたよりに観た「アイーダ」の舞台は決して忘れない。ドイツ音楽に一辺倒で、イタリア・オペラにはほとんど興味を示さなかった僕ですら、あの時の光景はまざまざと思い出すのだ。一種の狂気であり、乱舞である。僕にとってのヴェルディ・オペラはバブルの頃の思い出と直接結びつく。
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棚の奥に1枚のCDシングルが転がっていた。何故このCDを買ったのか全く記憶がない。

「パパの歌」(作詞:糸井重里、作曲:忌野清志郎)
家の中では トドみたいでさ ゴロゴロしてて あくびして
時々プーっと やらかして 新聞みながら ビールのむ

だけどよ 昼間のパパは ちょっとちがう
昼間のパパは 光ってる 昼間のパパは いい汗かいてる
昼間のパパは 男だぜ(カックィー)

忌野清志郎が亡くなった。世の中は大変な騒ぎになっている。それくらい「ロック」音楽の世界で、世代を超えて影響を与え続けて来た人なのだろう。坂本龍一とのコラボである「いけないルージュ・マジック」以外、僕は彼の音楽を知らない。もちろんRCサクセションにはまった時期もない。ただ、かれこれ20年近く前、プーランクの「ぞうのババール」を清志郎の語りで高橋アキがピアノを弾いたアルバムを清志郎ファンだという女性の誕生日プレゼントに贈った記憶が微かにあるのみだ(そのことは今思い出した)。よって多くは語れない。

2010年1月

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