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ブッダとテロリスト

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buddha_and_the_terrorist.jpg以前仏教のこころをテーマにしたサティシュ・クマール著『もう殺さない―ブッダとテロリスト』を読んだ。殺人鬼アングリマーラが仏陀に諭され改心するも、被害者の遺族が彼を到底許すことができない、そういう葛藤の中で両者が最終的に歩み寄り、「許し」の重要性を真に教えてくれる良書であった。
その物語が脚本家の梶本恵美さんにより秋吉久美子さん主演の素晴らしい朗読劇として生まれ変わった。本郷にある東京都指定有形文化財求道会館での正味1時間半の舞台は、会場の雰囲気と相俟ってまさに神聖さと人間臭さの両方を感じとれる見事なものだった。
動きの少ない朗読劇であるからこそ、より一層内面に潜む想いが一言一句に表現されており、物語については隅から隅までわかっていたのでどうなのかとも思ったが、「人間がその想いを表現することの大切さ」をあらためて教えていただいたように思った。

元々この物語は、著者がニューヨークの9.11テロに遭遇し、「今こそ、平和へのメッセージを伝えたい」という想いから書かれたものであるそうだ。マハトマ・ガンディーの思想に共鳴した彼らしく、まさに「非暴力」を軸にした簡潔でわかりやすい物語になっている。

人は感謝の気持ちを忘れてついつい愚痴を言ってしまう生物である。「のに」という接続詞が口を突いた瞬間にエゴが頭をもたげる。そういえば、昔「Giving Tree(邦題:大きな木)」の話を聞いて、なるほどすごいなと感動する一方で、いやいや人間というもの残念ながら自身を犠牲にしてまで人の役に立ちたいなどとは心底は思えないものだろうと感じたことを思い出した。人間関係とは難しいものである。特にそれが近しい関係になればなるほど難易度が増す。

歌舞音曲禁止

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20年前、昭和天皇崩御に際し、街中からあらゆるBGMが消え、テレビはどこのチャンネルを回しても何日間かは皇室関連のニュースばかりで、レンタルビデオ店ばかりが大いに賑わっていた。つい昨日のことのように思うのだが、今上天皇が即位されて20周年なのだから、やはり時間の経過は恐ろしく早い。

当時、僕はNHK関連のイベント会社に勤務していた。前年の秋以降陛下の体調が思わしくないことが取り沙汰され、クライアントとのミーティングでXデーの対処法について様々議論したことを思い出す。ともかく誰も経験がないのである。果たしてどうなることやらとクライアントともども気を揉み、その「時」をただ待った。

崩御の当日だったと思う。深夜にテレビを何気につけると、今は亡き山本直純先生が確かモーツァルトの第40番シンフォニーを指揮している姿が映った。オーケストラはどこだったか記憶にないが、その音楽はいつもの直純先生らしくない、厳粛で哀しみに満ちた勢いのある名演奏だった。直純先生とはその頃仕事の関係で何度かお会いさせていただいたことがあったし、コンサート後の打ち上げの場にご一緒させていただいたこともあるが、その演奏、あるいは日常の行いについて残念ながら感心したことがなかった。もちろん人となりは気さくで親しみやすい方だったのだろうが、(20代前半の若造が言うのも気が引けるが)何せお酒が入った場ではいただけない。そんなシーンばかりを見ていたものだから、おそらく昭和天皇への哀悼の意を込めて先生が真面目に演奏されている光景を観て意外だったのだろう、「直純先生、やる時はやるじゃない!」と正直吃驚したのである。
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授業の前に少々時間があったので大学近くの松陰神社にお参りした。安政の大獄で29歳にして斬首刑になった吉田松陰が眠る神社である。日本の歴史にはあまり詳しくないので、松陰についても高校レベルくらいの知識しか持ち合わせないが、どうやら今年は没後150年のようである。
松陰語録をひもといてみると、なるほどそこには熱い言葉が並ぶ。

志を持たないことには何事も始まらないのだと。おっしゃるとおり。世田谷にあるこの神社に隣接する某大学での90分の講義。例によってエントリーシートテストのガイダンス。さすがに今のご時勢、学生といえどもそれなりの危機感はあるようで、至極真面目に、そしてほぼ私語なしに耳を傾けてくれた。それにしてもほとんどの学生の躓きどころが「志望動機」。150名近くの学生が参加していたように思うが、これまで業界研究のためにOB訪問をしたことがある人という問いかけに手を挙げた学生は皆無。そういう意味では見事としか言いようがないが、考えてみれば自分だって3年生の今頃はもっと意識が低かっただろうゆえ仕方ないといえば仕方ない。僕など今の時期、業界研究どころかひとつの準備も始めていなかったに等しい。
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静岡県小山町立小山中学校第2学年社会体験学習の一環で、本日2時間ほど「キャリア教育研修会」を担当させていただいた。中学生相手の講座は初めてである。コンテンツはすべてお任せということだったので、自分が思うようにやらせていただいたが、14歳の皆にとってはどうだったのだろうか?ひとつ残念に思ったのは、なかなか発言が出ないこと。とはいえ、自分が中学生当時そういう場で自由に発言できたかといえばそうじゃないわけだから、それも致し方なし、まぁ、厳しく採点して70点くらいの出来だったかなと反省しきり、である。

ところで、どんな内容にしようか今朝考えていたときに、突然小学校時代のことを思い出した。いまだに家族の中では語り草のエピソードなのだが、卒業文集だったかで書いた「将来の夢」にまつわる話。おそらく山奥の小さな村の生まれ育ちということもあるだろうし、あるいは長男として生まれたという背景も絡んでいるのだろうが、小学校の真ん中あたりくらいから僕は随分大人しい性格になった。そう、引っ込み思案で、人見知りで、何か新しいことにチャレンジするのが苦手で、そういう意味では取り柄のない目立たない子どもだった。とにかくなるべく順応し、当たり障りのない行動を心がけるようになっていった。そんな僕が書いた夢は次のようなものだった。
「大学には行けなくても良い。母屋の隣の離れを建て替えたい」
周りの友達はみな「医者になりたい」とか「トラックの運転手になりたい」とか、とにかく子どもながらの「夢」を語っているにもかかわらず、僕はそんなちっぽけな何も考えていないようなことしか書けなかった。そして、その「夢」に対して、当時の校長先生がひとりひとりに対して返答入りの色紙をプレゼントしてくれた。その言葉がまた想いに溢れた重い言葉であった。

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時に全くの静寂の中に身を置きたくなる。否、というよりそういう環境に身を置くことで「自分」というものを振り返り、直視した方が時にはいいのではと思うことがある。しかしながら、今の社会環境では、完全な「無」、あるいは完全な「静寂」など作りようがないから困ったものだ。
例えば、意図して音楽を聴かなくすることは可能だ。そう、いつも散々こき使っている音響装置を休めてあげればいいだけだから。テレビだって、いつもは気になって夜にニュースや多少のバラエティにチャンネルを合わせるが、それに対しても基本的には執着ないゆえスイッチを入れなければいいだけの話。あとは、妻の練習するピアノの音がかそけく流れてくるが、蓋をするわけにもいかず(笑)、いずれにせよこれはまぁ音楽というより環境音のようなもので(実際には間違いなく美しい音楽を奏でているのだが)、特に問題ではない。外は車や工事の音、消防車や救急車の音、都心のど真ん中ゆえ、昼夜問わず雑音、騒音が山のように溢れている。烏の鳴き声だってそうだ。いつの間にかそんな環境音は気にしなくなっている、というより慣らされてしまって気にならないことがある意味恐ろしい。

焦らずゆるりと

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「果報は寝て待て」という諺があるように、やるべきことをやって後は慌てず急がずという姿勢がとても大切だ。僕はもともと暢気な性格で、基本的に焦ることはないが、まさに「急いては事を仕損じる」の言葉通りで、左脳的に動いた瞬間に裏目に事が運んでしまうことがよくある。地道に行動しつつも、計算づくでなく直感的に生きることが重要かな。

暢気とはいえ、やっぱり仕事をすることが好きなようだ。オンオフ、メリハリは明確につけるべきだが、仕事かプライベートかの境界線がわからなくなるほど働いていた時期が長いものだから、何もすることがなくぼーっと過ごさざるを得ない日があるだけで途端に心身が鈍ってしまい、一気に「不安」になってしまう。一種の職業病である。根が真面目だからこれもしょうがないことだろう。ただし、うつ病になるほどの完璧主義者でもないから、「まぁ、いっか」という言葉も頻繁に口を突いて出る。もちろんズルしてるわけではないし、中途半端で投げているわけでもないので、人様に迷惑をかけることは一切ないのだけど。

紙婚式に

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結婚1周年記念日のことを「紙婚式」というらしい。まだまだ関係が薄っぺらく、破れやすいから、一層「関係の質」を厚くするようお互い努力せよという忠告の意味合いも含まれているのだろうか。
それにしても1年は早い。周囲の心配をよそにそれまで勝手気儘な独身生活を送っていた僕もいよいよ『年貢の納め時』ということで、昨年の今日、ついに結婚式を挙げた。驚いたのは長年「女性とは縁のなさそうな僕」を見てきた東京の友人、後輩たち。まさか僕がそういう風になろうとは誰も思っていなかったようだ。自分自身でさえ結婚するなどとはついこの前まで夢にも思ってもいなかったのだから。

思い返せば、この3年で環境が180度変化した。そもそもの発端はある先生との次のような会話。
「他人の世話を焼く前にそろそろ自分のことを考えた方がいいですよ」
よく意味がわからなかった。
「人に愛を説く前に、あなた自身がをしたらどうですか・・・」
スイッチですよ。スイッチがオフになってるからできないだけなんです」
ともかく当時の僕の身体は衰弱した老人のようにボロボロだったらしい(身体的意味においては極めて健康だったし、本人的に自覚は全くなかったのだが)。しかも無意識に「感情」のスイッチまでもオフにしていた。そりゃ結婚どころか恋愛すらできるはずがない。今になってそのことははっきりとわかる。

青空チベット体操

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ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉
リッカルド・ムーティ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団


以前も採り上げたが、時折この音盤が聴きたくなる。ムーティの音楽は余程でない限り耳にすることはまずない。ただ、これは彼がザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルと録音した実況盤とあわせてハイドンのこの傑作を知らしめてくれた僕にとって大切なCDである。
ハイドンの音楽は後輩であるモーツァルトやベートーヴェン(特に初期)の音楽とは似ているようで非なるもの、独自の輝きを放つ。しかしながら、この「十字架上」に関しては、明確な確証は一切ないものの、どことなくモーツァルトから影響を受けている、あるいはモーツァルトに大いなる影響を与えている、そんな音楽のように直感的に僕には感じられる。「ハフナー」交響曲や小ト短調交響曲の木霊する、果てしなく魂を癒してくれる、そんな傑作なのだと僕には思えるのだ。よくよく調べてみると、この「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」は1786年に作曲されたことがわかる。実際、礫刑に遭ったキリストの悲劇を表すに、ハイドンが1773年に創られたモーツァルトの小ト短調の激性を参考にしたとは考えられまいか。あるいは、1776年に生み出された「ハフナー」セレナーデの第1楽章第1主題-ともかくあの明快な機会音楽からあえて意識的に序章のテーマは借用されているのではないか。この音楽の持つ力は大きい。このハイドン一世一代の傑作は、実はあくまで悲しみの衣を纏った「歓喜」の音楽なのではないか。そんなことをついつい考えさせられる。
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カール・ベーム&ベルリン・フィルのモーツァルト交響曲集は、一世代前(?)の一時代を築いた金字塔のひとつである。そして、ほぼ半世紀の時を経た今の時代でも並々ならぬ説得力を持つ傑作だと思うのだ。今や10枚セットのCDがわずか数千円で購入できてしまうゆえ、ありがたみに少々欠けるといえばそれまでだが、どの部分から聴いてみても、ここにはかつて少年の頃夢見たモーツァルトの目くるめく世界が充溢し、例えば掛けがえのない旋律美からはそこはかとない悲しみや天上的な喜びなどが感じられ、まるで全ての思考、感情がこの中に包括されているといっても言い過ぎではないだろうと思うほどの完成度を誇っている。本当に「心」までもがもっていかれてしまう。

中でも、「ジュピター」交響曲は、かつて愛聴したワルター&コロンビア響盤のその名の通りの壮麗さと威容にも匹敵し、そして僕がかねてより愛して止まないヨッフム&ウィーン・フィル盤(何とベーム追悼公演!)の老練の極みとはこれまた一線を画す若々しさを備えた、極めて普遍的な演奏である。もはやこの交響曲は年に何度かしか真剣に聴くことはなくなったが、時折不思議に聴きたくなる。60年代初頭のベームの音楽は若々しい。きびきびとしたテンポ感で、それでも一音一音が意味深く、常に前進する勢いのあるモーツァルトが展開される。

歴史の分岐点

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自分の能力を過信して、いや、能力以上のことを無理して(背伸びして)遂行しようとすると必ずしっぺ返しに遭う。分相応、身の丈をわきまえて、エゴに走らず(そういう行動をとる人の大半はそれが「エゴ」だとは気づいていないところがこれまた手に負えない)、「あるがまま」に身を任せ・・・。

リーマン・ブラーザーズが破綻して早くも1年を迎える。ウォール街では反省の色さえ見えず、一部の金融関係会社が投機的な動きを復活させているようで、バラク・オバマ大統領が演説の中でそういう動きに対する忠告、釘を刺す光景が放映されていた。
反省だけなら猿でもできるというが、反省すらできないのが「人間」かもしれない。歴史は繰り返す。歴史こそ人間が作り出すものであり、同じ「過ち」を性懲りもなく繰り返さぬよう「原点」、すなわち「自然」に戻ってもらいたいものである。

2010年7月

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