現代音楽の最近のブログ記事

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大学の授業では、毎回学生にテキストの音読をしてもらう。そして、大事なところにはマーカーで下線を引くよう指示する。皆、読まれている個所を真面目に聴く。

明らかに「音読」には相応の効果がある様に思う。目から文字を追うだけでなく、耳から「音」として言葉を捉えるようにすることで、一層記憶に定着するようだ。物事の習得においては、視覚と聴覚の両方を上手く使うことが重要なのだろう。

それにしても「読まない」学生が多い。大学1年生には、日本語理解力を磨くために毎日の新聞の精読と、月に最低5冊は教科書以外の本を読めと薦める(必要なのは1年生に限ったことではないが)。コミュニケーションの基本は「聴くこと」であるが、一方でよりわかりやすい「発信」を心掛けることも大切だ。話をわかりやすくするためには論理立てて結論と理由を簡潔に述べねばならない。だらだらと枝葉の話に終始してしまうと、論点がぼやけてしまい、結局何が言いたいのかがわからなくなる。

鏡の中の鏡

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今日は新月だという。要らないものを処分し、願掛ければ願事が叶うという定説がある。

振り返ってみると、僕の周りは要らないものだらけだった。少なくともこの4月に住居を別にしようと引越作業をする前は、昔の「思い出」として取り置いていたものがたくさんあった。何かをするために意識的に残していたわけではない。「思い出」が詰まっている以上、単に捨てられなかったのである。

「思い出」って何なのだろう?思い残しのこだわり、すなわち「未練」なのか、それとも「過去への固執」なのか・・・?そんなものは頭の片隅にとっておけばいいものじゃなかろうか。「物」として残しておく意味(少なくとも身近に置いておく意味)はあまりないのではないかと思い、そういうものの一切合財捨てた。

そういえば、時折、過去の栄光にすがってばかりいる人がいる。する話はいつも昔話、それも自慢話。明らかに自身の成長を止めているんですよと発表しているようなものなのに気づかない。
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モーリス・ベジャール・バレエ団がまだ二十世紀バレエ団と名乗っていた頃、ジョルジュ・ドンの「ボレロ」に魅せられ、来日のたびにわずかな数であるもののその舞台に触れることができた経験はとても貴重な思い出である。ベジャールの創造するモダン・バレエの世界が衝撃的で、一時期ビデオやLDを収集し、映画館でロードショーが行われると聞きつけては通っていたあの頃が懐かしい。

若きモーリス・ベジャール自らが踊る「現代のためのミサ」という作品がある。モノクロの古い映像だが、BGMとして使用されている音楽が不思議に心に残った。また、「若いダンサーへの手紙」というレーザーディスクに収録されているジョルジュ・ドンによる「旅」にも驚かされた。これがバレエなのか?!まさに前衛的な音楽をバックにドンが憑依されたかのようにパフォーマンスする様は刺激的だった。

いずれの音楽もフランスの生んだ前衛作曲家ピエール・アンリの作品である。パリ音楽院においてオリヴィエ・メシアン、フェリックス・パスロンヌ、ナディア・ブーランジェに師事した彼は、オーケストラの団員としてキャリアを積んだ後、テープレコーダー誕生以前の1949年にピエール・シェフェールと協力して「ミュージック・コンクレート」の第一歩を築いたのだという。
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寒いと思ったら雪が降っている。それもかなり水分を含んでいそうな大粒の雪である。ここのところ暖かい日が続いていたからてっきりこのまま春になるのかと期待していたが、さすがにそんなはずはない。2月になって真冬に逆戻りである。

ベロフの弾くドビュッシーを静かに聴きながら、ガラス越しにひたひたと降り落ちる雪の結晶に幼年時代を投影させる。無数に落ちてくる雪を眺め、子どものころの記憶を手繰りよせるのだ。愛娘エンマに捧げられた「子供の領分」は、作曲者のあくまで個人的な手記である。時にユーモラスに、時にやさしく。
あの頃、雪が降るととても嬉しかった。雪合戦、雪だるまなど「遊び」もそうだが、学校が休みになると思うと身体中が喜びに溢れた。さぼれるものならいつでもさぼりたい、そんな風に考えていた。今となっては古き良き思い出である。

いつの時代、どんなジャンルにおいても革新的な人々が存在する。もちろんドビュッシーもその一人。昨日の「早わかりクラシック音楽講座」で採り上げたムソルグスキーもそうだ。

感謝

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もうかれこれ6,7年になるだろうか。拙宅では食事は動物性のものは一切使わない。そう、いわゆるベジタリアンである。この習慣をもって以来身体の隅々から余分な脂肪や毒が排除され、それまで以上に心身がすっきりとした安定した状態にあり、すこぶる気持ちが良い。とはいえ、人様との打ち合わせなどで外で食事を摂るとき、どうしても完全ベジタリアンで通すわけにはいかないときも当然ある。出されたものを食べないこと自体失礼に当たるという思いもあるし、あるいは食べられないというわけでもないゆえ、そういう時は「(命を)いただきます」という謙虚な気持ちで、感謝の念を込めて喜んで口にするようにしている。気持ちの持ちようで、実際とても美味しくいただける。

久しぶりの友人との食事ということで昨日は昼も夜も外で食事をした。魚も美味しくいただいたし、さすがに牛ハラミは遠慮したものの鶏肉も美味しくいただいた。

悲歌のシンフォニー

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先日あいだゆから薦められた本。彼女曰く、セミナーを受講した直後に読んでみようと手に取ったところ、何とセミナーの中で教わったことが書かれてあり、岡本さんは読んだことあるのかと思ったとのこと。いや、僕がワークショップZEROの中でお話していることは、本を読んで学んだり、あるいはどこかの書籍から抜粋して引用しているものは一切なく、20年という歴史の中で、しかも1万人という人間と実際に対峙して学習してきたこと、感じてきたことを体系化し、受講いただいた方に体感ワークとともに教示していることなんだよと強調した。ゆえに説得力があります。
どんな本でもその著者の主観で書かれている。中には「なるほど」と思わず膝を叩いて感動させられる良書もあれば、実体験から学習したものでなくどこかからの引用ばかりで内容の薄い愚書もある。世の中にこれだけ書籍が氾濫している以上、お目当ての、というより納得の行く「良い本」に出会うというのは至難の技に近いが、それでも長年読み継がれている古典(それは小説でもエッセーでも、あるいは難解な哲学書などでもよい)ならば、まず間違いなく心の琴線に触れる箇所、あるいはフレーズが必ずあるものである。

薦められたその本、パール・バック著「母よ嘆くなかれ(新訳版)(原題は、The Child who never grew)」(法政大学出版局)。知的障害を持つ娘を持った著者が、子どもの成長とともに体験した様々な出来事から、人間の平等性、人を受け容れることの大切さを学んでいくことを記した実話を基にしたエッセー。

リゲティ万歳!!

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今月の「早わかりクラシック音楽講座」でリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を採り上げる関係で、久しぶりに「2001年宇宙の旅」を見返してみようとDVDを観た。観たといっても冒頭の15分間のみ。そう、『人類の夜明け』と題されるこの物語の「はじまり」の部分だけを、である。この映画は映画館でもLDでも、そしてDVDでもことある毎に観てきた。特にこの冒頭は意味深いと思うのだが、見過ごしやすい箇所も多く、いかにこれまでぼーっとただ目にしてきたかがわかる。キューブリック監督がこの映画で何を表現したかったのか、この難解な映画の解釈の端緒が突然だが少しばかりつかめたような気がする。
モノリスと呼ばれる謎の黒い石板。このモノリスによって智慧を授けられたヒトザルは、最初に何を覚えたのか?すなわちそれは生物の殺戮。それまでの威嚇だけによる縄張り争いが、武器を知ることによって凄惨な戦いにとって代わる。あるいは、主に水や木の実だった食料源(確かに空腹に耐えかねる様子も描写されているが)が、動物の骨を武器とし、彼らを殺し、その肉を食糧にする、まさに人間が肉食になったその瞬間を何気ない形で表現する。
何度も繰り返し観てきたシーンだが、そういうことに気がついたのは今日が初めてのこと。気になってアーサー・C・クラーク(伊藤典夫訳)の原作(ハヤカワ文庫SF)を引っ張り出してきて上記の部分に相当する第1部「原初の夜」を久しぶりに読み返してみた。映画以上にそこには緻密にかつ克明にクラーク流「人類の夜明け」が明記されている。ところで、映画にも登場するそのヒトザルのことを小説では「月を見るもの(moon watcher)」と称している。「月を見るもの」って一体何を意味するのだろう?(昔この小説を読んだとき、あまり意識しないまま読んでいたのか、あるいは理解不能ととらえてほとんど「考えずに」読んでいたのか覚えていない)意味深だ。
この映画の奥深さは一筋縄では解決できまい。少しずつ「深く思考」しながら観ていくと新たな発見がまたあるかもしれない。小説ともども機会をみてじっくり考察してみようか。

ウィーン・モデルン

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久しぶりにラッシュアワーの山手線に乗り合わせた。満員電車とはいえ、決して「すし詰め」状態ではないので毎日のように体験されている方々から言わせると「あんなものじゃない」とお叱りを受けるかもしれない。今更ながらだが、東京の人の多さには恐れ入る。同じ日本でも、一方では過疎に悩む農村集落があることを思うと、産業革命以後の進歩の功罪についてあれこれ考えさせられる。果たして本当に社会は進化、進歩しているのだろうか・・・?
何年か前に名刺を交換させていただいたある社長から毎月近況を報告する「通信」が届けられる。その「通信」の裏面には毎回含蓄を含んだ名言が記されているのだが、今日届いたその文書を見ると次のように書かれていた。

心が変われば、態度が変わる
態度が変われば、行動が変わる
行動が変われば、習慣が変わる
習慣が変われば、人格が変わる
人格が変われば、運命が変わる
運命が変われば、人生が変わる

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NHK-FM放送。昔は、本当によくお世話になった。少なくともまだまだCD黎明期で、LPレコードと2本立てでアルバムが同時発売されていた80年代後半頃までは頻繁にエアチェックをし、気に入った音楽はカセットテープに保存して、繰り返し聴いたものだ。しかし、今やまず聴くことは無くなってしまった。

今朝、久しぶりにラジオのスイッチを押してみた。NHK-FM。番組名は知らない。突如、耳に飛び込んできた音楽が、懐かしいEmerson, Lake & PalmerのToccata(Brain Salad Surgery(邦題:「恐怖の頭脳改革」)所収)。嗚呼、何てかっこいい曲なんだろう・・・。ついつい手を止め、聴き入ってしまう。
そして、続いて流れたのがその原曲となったアルベルト・ヒナステラのピアノ協奏曲第1番作品28の第4楽章。原曲もさることながら、Keith Emersonの編曲センスは、彼らの「展覧会の絵」などを聴いてもわかるように他を寄せつけない圧倒的なもので、聴き方によってはEL&P版の方が良いと思う人もいるんじゃないかなどと考えながら数分傾聴する。
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小沼純一編「武満徹エッセイ選~言葉の海へ」は滅法面白い。僕は武満徹の音楽自体について語れるほど詳しくない。それでも、彼が一介の作曲家ではなく日本が誇る世界のタケミツになったにはそれなりのわけがあり、西欧と東洋を融合した音楽作りもさることながら、物書きとしての能力-びっくりするほど博学なんだということを初めて知った(失礼な話だが)。音楽についてだけでなく、自然や宇宙というところまで見据えたその考え方は、読んでいてなるほどと頷かせられることがとても多く、今まで武満徹の書いた文章をおざなりにしていたことを少々恥じた。

「音楽は祈りの形式である、とひとりの友は言う。たぶん、私自身の音楽行為も、それを言葉にして整え表すなら、その行為を支えている多層な感情は、祈りという一語に集約されるかもしれない。むしろ他の言葉によっては説明し得ぬものである、と言って差し支えない。だが、祈りはここでは既に言葉では無いなにものかである。・・・・バッハがそのマニフィカートで描いたひとすじの旋律の線は、個人の感情の諸要素と全く一致しており、たんに音の機能の帰結としてのみそれをみることは不可能である。・・・バッハは、かれを内から突動かす不分明の力にたいして敬虔であり、その深さにおいて天才であったと言えよう。そして、その力が向かうところには神があった。しかも、その個人の天才は、時代と地域社会の土壌に根ざしたものであり、たやすくは抽象しえないものであった。
だが、近代的な自我を獲得した後の文明社会は、個人の存在をできるだけ遠くへ拡散させる方向に進み、テレ・コミュニケーションは地域社会を都市化へ向かわせ、多量な情報のなかで、ひとは一様に虚しさに囚われている。それを癒すために執られる手段は、またそれ自体が自立して人間ばなれしたものになる。人間の個性は極めてエキセントリックになり、社会的な繋がりは次第に失われて行く。人間は各個にはばらばらでありながら、個人の営みはかならずしも充実しない。そこではむしろほんとうの個人を保つことは難しい。」

2010年9月

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