管弦楽曲の最近のブログ記事

mussorgsky_picture_stokowski.jpg
ここのところ毎日のように「動物の謝肉祭」が流れている。
9月5日(土)に多治見市文化会館で開催される「愛知とし子ファミリーコンサート」のメイン・プログラムゆえ、ピアニスト本人が日々研鑽を積んでいるのである。
それにしても元々管弦楽で演奏されるべき楽曲を1台のピアノで奏することは表現の幅という観点から言っても非常に難しかろう。
ともかく5日のコンサートでは、この「動物の謝肉祭」に創作物語がつく予定なので、当日ご来場いただいた皆様(大人も子どもも)には充分楽しんでいただけるであろうと期待している。

カミーユ・サン=サーンス作曲の組曲「動物の謝肉祭」は、1881年に作曲された。しかしながら、楽曲の随所に先人の音楽を拝借しつつパロディ的に作ったものだから、有名な「白鳥」を除いて、作曲者の生前には出版どころか公で演奏することすら禁じられてしまった。作曲者死後、至る所で演奏機会を得るにつれ、どこでも絶賛を博し、今ではサン=サーンスと言えば「動物の謝肉祭」というほどの代表作になっている。組曲には「ピアニスト」や「化石」までもが登場するのだから、洒落だろうと皮肉だろうと面白いし、音楽としても充分に楽しめる。
newyear_1989_carlos_kleiber.jpg
僕がウィーンを訪問したのはいつも真夏の今頃だった。
本当はシーズン中の真冬に訪れてオペラやコンサートなどを堪能したいと常々思っていたが、いかんせんサラリーマン。夏休みの関係などでそうもいかなかった。独立したらしたで長期の休みをとる余裕もない。まぁ、老後の楽しみにとっておくか・・・(笑)。

基本的にウィンナ・ワルツといわれる音楽に特別思い入れはない。ただし、気分が落ちている時に気持ちを前向きにする効果があるのか、時に音盤を取り出して、何も考えずにぼーっと聴くと、ウキウキ愉しくなる。

ヨハン・シュトラウス2世が作曲したポルカ「とんぼ」作品204。どういうわけかこの音楽のもつ何ともいえない「癒し」の調子に惹かれる。特に、カルロス・クライバーが初登場した89年の「ニューイヤーコンサート」はDVD、CDともに最高の宝物だが、映像で観るカルロスの颯爽たる棒さばきと軽快で魔法使いのような動きが得もいわれぬ感動を呼び起こしてくれる。
handel_water_music_mackerras.jpg
長年クラシック音楽に親しんできたものの、歌もの、特にイタリア歌劇については苦手意識をもっていた。齢を重ねるにつれ少しずつではあるが随分と親しめるようになった。それでもドイツもの、せいぜいロシアものというのが精いっぱいで、ラテン系のオペラや歌曲については残念ながら共感が薄く、のめり込んで聴くという機会をほぼ持たなかった。だから、多少、本日の講座でご参加いただいた方々に迎合してしまった感も否めない(笑)。もちろんそんなことなど露ほども感じさせなかったと思うのだが、僕的には何だか不完全燃焼なのである。

ヴェルディは、作品は大衆に受容されない限りまったく価値はないと考え、寸暇を惜しんで働いた。そして、結果常に人気を誇るオペラ作曲家として君臨し続ける。そう、少なくとも壮年期のヴェルディは「国民皆から愛される」流行作曲家にならんと努力し、奔走したのである。「わかってもらって」なんぼ、「必要とされて」なんぼということ。

カラヤン没して20年

| コメント(4) | トラックバック(0)
R_strauss_metamorphosen_karajan.jpg
僕が後悔するのは、結局、一度もカラヤンの実演に触れ得なかったこと。その昔、音楽雑誌の評論や巷の意見、すなわち周辺の「情報」だけにほとんど洗脳された状態でカラヤン芸術を一蹴し、音盤ですら聴き込むこともなく、まともに確認もしないまま、フルトヴェングラーやワルターなど物故した過去の巨匠の音楽の「虜」になっていた自分が今となっては恥ずかしい。よくよく考えると、僕が中学生の頃初めて購入したシンフォニーのLPはカラヤンがフィルハーモニア管弦楽団とEMIに録音したベートーヴェンの第5交響曲だった。それこそ擦り切れるほど何度も聴いた。少なくとも少年であった僕をベートーヴェンの世界に誘ってくれた最初の指揮者はかのカラヤンだったのだということをよもや忘れちゃいけないな。若気の至りということもあろうが、何にせよ身を持って体験もせず「情報」だけでブロックをかけることは慎まねば。

僕は最近、セミナーの中では、「巷に溢れる情報だけに左右されず、仕事でも何でも自分の目で見、自分の身体で感じた方が良いよ」と口角泡にして語っている。結果がプラスであれマイナスであれ、自分の身体で体感したものに関しては信頼度が高い。世の中「共感力」ということにうるさいが、体験のデータベースの量を増やさない限り、人への共感の度合いも伸びないわけだから。
asahina_don_jovanni.jpg
昨日のコメントで雅之さんから「自己責任」についてのご指摘を受け、随分考えた。偉そうに「自己責任」などと大仰なことをのたまわりながら、そういう自分は「自己責任」を全うして生きてきたのか?
答は「No」である。少なくとも2年半前までの自分は、周囲に依存していた。責任を取るのは嫌だと思っていた。もちろん二本の足でしっかりと自立するということも、そうありたいと願いながらどこかで怖がっている自分がいた。誰かに、あるいは何かに依存している方が楽だから。このまま安泰で続けられれば良いと思っていた。少なくとも20歳代の頃はピーターパン・シンドロームじゃないが大人にならずにずっと子どものままでいられたらどんなにいいかとも思っていた。でも、人間は確実に歳を重ねる。否が応でも自立しなければならない「時」が訪れる。責任が取れない男にはなりたくないと思い、直感的にそれまでの生き方を否定し、会社を飛び出した。仕事は大いに意味のある、意義深いものだったが、自分自身の生き方について「このままではまずいぞ」と何か(目に見えない誰か)が教えてくれたのだ。今にして思うと、あそこで勇気を振り絞って行動を起こして良かった。
prokofiev_romeo_dutoit_nhk.jpg
「生まれる前から計画を立て、その計画通りに人生を歩む。よって良くも悪くも身の周りに起こるすべてのことは計画通りなのである」
もう15年近くも前にベストセラーになった「生きがいの創造」(飯田史彦著)という書籍がある。発売と同時にすぐに目を通したが、当時の僕にとってとても衝撃的だった。どういうわけか僕には、「輪廻転生」、「生まれ変わり」という考え方がすんなりと理解、納得できた。今の両親は自分が選んで生まれてきたということ、そして人生で経験することはすべて「生まれる前に」決めた上で出てきているのだと(ただし、都度の選択によって未来はもちろん変わるが)。

「人間の本質は決して変わらない」、
「変わるのは関係性だけ」、
そして、「関係性の良し悪しで状態の安定・不安定が決まる」
「人間力」とは、すなわち「人の間の力」と書く。まさに「関係構築力」。ほんの少しずつだが、本質が見えてきたよう・・・。
sibelius_finlandia_jarvi.jpg
真の自由を手にするためには「自己責任」で物事を全うする決意をすることが重要である。自分で決断し、自分で切り拓き、歩んでいく中に「喜怒哀楽」があり、その中で学び、成長してゆくものなのである・・・。

7月に入ってからジュゼッペ・ヴェルディのことを少々勉強し、音盤をいくつかじっくりと聴いているが、彼の音楽がイタリアの統一や民族独立の旗印になったという事実を知るにつけ、少なくとも19世紀に生きた辺境の国々の人々はいわゆる列強の支配に随分悩み、とにかく自立することを旨とする運動をあちこちで繰り広げたんだろうと、当時の血気盛んな民衆の精神について想いを馳せた。現代の人々に足りない部分は、自ら何かを成し遂げようとする強い信念と意思を伴った「独立心」なのではないだろうか・・・。

徹底的であること

| コメント(2) | トラックバック(0)
bizet_detoit.jpg
「・・・ところで私は、ここまで述べてきたことの多くが読者にはわかりきった、語るまでもないことに思われるだろうと承知している。しかし、芸術においては些細なことでも極めて重要なことがあり演奏する者にはそれが決して必ずしもわかりきったことではないということはさて措き、本当に才能のある人たちがしばしば、どんなに真剣さを欠いて自分の職業に従っているかを私は見てきた。が、とにかく結局、トーマス・マンが『魔の山』のまえがきで次のように言っているのは、もっともだ。「綿密過ぎるという悪評を恐れず、むしろ〈徹底的であること〉が本当に面白いのだと考えたい。」だから〈徹底的であること〉が少なくとも不足してはならないのである。」
(~「指揮者のおしえ」フリッツ・ブッシュ著、福田達夫訳

共感-年の功

| コメント(4) | トラックバック(0)
grofe_dorati.jpg
人それぞれの価値観は千差万別。ある人の「考え」や「感覚」にたとえ1割でも共感できる部分があるとするなら、それは上出来である。それくらいに人間の持つ「センス」というのは違うものである。
ここのところ「共感」についてしばしば考える。ひとつには、「ワークショップZERO」のテーマでもあるから。2日間の本コースでも然り、2時間のショートコースでも然り、人と人とがコミュニケーションをするにあたり、相手にいかに共感できるかが大きな鍵だということを口酸っぱくお伝えする。しかしながら、「共感」とは単なるスキルではない。どんなに術を伝授してもらっても心底「共感」できるために重要なポイントがある。それが、喜怒哀楽を前提とした体験であり体感なのである。要は、人間と対峙し、泣き、笑い、あるいは挫折し、成功し、という経験なくして真の「共感」はありえないのだ。いかにそのデータベースを増やすかがポイントである。
そして、もうひとつは、とある企業から「企業理念」を全従業員の間に浸透させるための研修ができないかというオファーがあったこと。「企業理念」の浸透には、会社のトップへの「共感」がこれまた重要な要素となる。組織内の「共感」は対個人のそれ以上に難題だ。
「さて、どう斬り込むか?」・・・本日そのことについて一日熟考。

マジですか!?

| コメント(2) | トラックバック(0)
janacek_mackerras.jpg
まだまだなんだが、最近になってようやく地に足が着き、僕自身が「為さねばならないこと」が一層明確になり、揺るぎないものになりつつある(「なりつつ」というより「なった」と言ったほうが正しい)。

20代から少なくとも30代の前半くらいまでは自分が「何をしたいのか」わからなくて悩み、八方塞に陥ってしまう人が多い。そういう時、藁にもすがる気持ちで、目の前を通り過ぎるあらゆるものに手を出す人がいるが、そうではなくて「今やらなければならない仕事に全力投球する」ことが最善なんだと僕は声を大にして言いたい。そういう時は安易に転職したってダメだ(環境を替えても自分が変わらないわけだから結局意味がない)。もちろん「スピリチュアル」に頼っても無理。今現実に直面している、やるべきことでベスト・パフォーマンスを生み出すこと、それしかない。

30代半ばになって「あなたは何ができますか?」と問われた時、「できること」を持っている人と持っていない人とではその後の生き方に天地ほどの差が生まれる。とにかくスペシャリティを身につけることが重要。そして周囲の負の洗脳(洗脳といえば聞こえは悪いが、誰でもぬるま湯にいれば鈍ってしまうし、常にキャリアアップを考えているような人間が身の周りにたくさんいる環境だと自ずと自分自身も前向きになる)にも負けず、「自律的に生きるという意識」を持ち続けることが大切なのである。

2010年7月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のコメント