プログレッシブ・ロックの最近のブログ記事

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先日のブログ・コメントで「善くも悪くも、どうしようもなく思考回路が情緒的、非論理的で、イコール日本人的」というご指摘を受けた。昔から国語の成績が極めて劣っていたというわけではないが、確かに僕の「思考回路」が「非論理的」であることは間違いない。

来週、神奈川のとある大学の夏期講座で「基礎学力文章力講座」の授業を担当する。3クラス計8コマを受け持つのだが、予習のためにテキストを見てみて吃驚。論理的な文章をいかに書けるようになるかが大きなテーマだが、自分の伝えたいことを説得力を持って述べるためには、自分の意見を支えるための具体的な「材料」(すなわち具体的データや客観的事実など)が必要であること、なぜ自分がそう考えるかを説明するときには、自分の気持や感情よりも、誰が見ても同じである、客観的なデータや事実を元に述べなければならないなど、を教授するよう指示されている。

強いて言うなら僕に足りないのが、自分の意見を支えるための具体的な「材料」の発掘である。そんなことを僕が教えられるのか??とも思ったが、受けた以上は仕方がない(というかやるしかない)。これは学生に教えるというより、自分の勉強ということで、テキストを貪るように読んで予習した(笑)。いやいや、天は必要なときに必要なものを与えてくださります・・・。
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「早わかりクラシック音楽講座」で初の試みとしてロック・ミュージックを採り上げる予定なのだが、そろそろ準備をせねばといろいろと文献を調べ始めた。3時間の講座なので「歴史」の全貌を語り尽くすことは不可能だが、50年代からのおおよその流れと主要なアーティスト及び作品についてはその音楽を聴きながら多少の解説を加えねばならないだろう。もともとプログレッシブ・ロックを中心に構成しようと思っていたが、「プログレ」の世界も実に幅広く、ましてやその前史を語らずして「プログレ」は語れないので、「ロックの歴史と流れ」を入口にし、最後はクリムゾンの「宮殿」あたりで収まるような時間にしたいと考えている(変更の可能性は十分あるが)。ということで、1970年頃までのポピュラー音楽シーンがメイン・テーマということになる。

60年代は僕が生まれて小学校に入学するまでの期間だから、ぎりぎり同時代の空気を吸いながらも、音楽にはもちろん目覚めておらず、残念なことにオンタイムでこれらの音楽を聴いていたわけではないという点が何より弱い。僕の記憶にあるロック・ミュージックの最初はイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」であったと思うが、それは1976、7年のことで、僕は中学にあがっていたし、周辺の友人たちの様子を見ていてもこの音楽が途轍もないエネルギーを持っているのだろうことは想像に難くなかったが、何せわずか13歳の身にとっては「猫に小判」、「豚に真珠」だったから、のめり込むなんてことはありえなかった(そのことも大学に入学してからあらためて意識したこと)。
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ゴールデンウィークにain soph.で開催した1dayセミナーは、極めて密度の濃い素晴らしい時間だった。あの時は参加者が全員女性で、それはそれは吃驚するくらい深いコミュニケーションを突き詰めることができたのだが、もし男性が入っていたらどうなっていたんだろう、という質問をいただいた。特に初対面の時、女性も男性も「異性」というものを意識する。その結果、あのときのような状態にはならないのではないか、というのである。
心配無用。あの場で提示しているのは「エロス」ではなくあくまで「アガペー」だから。「男」とか「女」とか、そんな概念の超えて、ひとりの「人間」としてお互いがお互いを知り、受け入れ合う、そういうニュートラルな状態が最終的に体感できる「場所」なのである。

「人を愛する」という言葉は安易に使おうと思えばいくらでも使えるが、本当に「愛すること、愛されること」を知ることって大切だ。何かを犠牲にしていると思うならそれは偽善。「心底してあげたい」と思える心。本来は誰もが持っているそういう「心」を思い出してもらいたい。

アニマルズ

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日の出とともに起床し、活動をする。そして日の入りとともに帰宅し、宵の口といわれる時間の内に床に就く。まるで小学生のような規則的な生活形態だが、そんなことが普通にできるようになったらどれほど「人間らしい」安全で幸せな生活が営めるだろうか。

子どもの頃、もちろん田舎での生活だったこともあるが、自宅の周辺に夜遅くまで営業している店などなく、黄昏時になると当たり前のように早足で家に向かった。外食などというものはほとんど体験なく、いわゆる家族団欒、家族みんなで食事をとった。今から考えると自身の成長過程において、そういう家族のコミュニケーションが密にあったことが良かったのだとつくづく思える。

今の時代、24時間営業のお店は日本中至る所にあり、必要なものはいつ何時でも揃う。そして、家に帰らずともいつどこでも安価で食事をとることもできる。便利な世の中になったものだが、失なわれたたものも多い。例えば人と人との「つながり感」。そして子どもへのいろいろな意味での教育。
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ゴールデンウィークが終わり、世間の喧騒が戻ってきた。
自宅からオフィスに徒歩で通勤する途中の「気」が明らかに違う。人が動き出すと「空気」が変わるっていうのは本当なんだ・・・。

昨日のポゴレリッチのコンサートについて、サイトで検索するといろんな人がいろんな意見を書かれているのが発見できる。賛否両論で、やっぱりついていけない人も多かったよう。確かに、3年ほど前のリサイタルはもう少し一般的に受け容れられ易い解釈だったように思うし、それくらいに今回の演奏会はぶっ飛んでいたということだが、僕に言わせれば、これがポゴレリッチの進化、深化であり、ひょっとすると神化かもしれないとさえ思え、真の芸術というものはこういうものであり、解釈の幅の広さが尋常じゃない(人智では計り知れないものという意味合いも含め)ということをわかって享受するべきものなんじゃないかとも思うのである。多分に横柄な言い方になるけど・・・。

昨日の静かな興奮がやっぱり蘇る。というより、深く考えさせられる。あれは、1と2の間に無数の数が存在するように割り切れない、答にならない、答を見出すことなんて不可能な体験だったのだ。それこそありのままを受け容れるしか我々凡人にはできない。あんなパフォーマンスは他の誰にも真似できまい。そんな勇気など誰も持たないだろうが・・・。

雪の中のKJ法

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東北新幹線で盛岡に向かう途中、福島あたりは大変な雪模様だった。朝早くに東京を発つときも真冬のような寒さで、手はかじかみ、ダウンジャケットでは凌ぎきれないほどの天気だった。盛岡駅から小1時間ほどレンタカーで走ると、工場と研修施設が建つ1万7千平米という敷地に到着した。着くなりぽつぽつと雪が降り始め、1日目の研修が終了した真夜中には随分降り積もっていた。そして、翌朝は一面の銀世界、雪化粧を施された樹々たちが何とも美しい。

川喜多二郎先生が考案したKJ法という手法を駆使して、幹部候補者を集めての研修。良くも悪くも素直で前向きに取り組む方たちだが、残念ながらイメージの飛翔があまり見受けられない。正解、模範解答を求めようとする頭が無意識に働くようで、きれいなのだが面白みに欠けるのである。それに決定的なのは、実践的に捉えられていないということ。あくまで「研修」の一環なのである。単なるゲームとして考えたならそれぞれの言動は全く問題ないが、会社のターニング・ポイントにある今、どのように自分たちが動き、対処していかなければならないのかという「当事者」意識が正直不足しているように思えてしまう。
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2日間にわたってタッグを組み、チームでとことん作業を続けると相応の信頼関係ができる。そのプロセスにおいていろいろなことが起こる。時にいらいらしたり、時に笑みがこぼれたり・・・。そんな中、楽しいひと時はともかくとして、嫌な思いを相手に率直に伝えることは勇気がいる。特に、出会って間もない人に対してはそうそう厳しい言葉をかけることを人は躊躇うものだ。

とはいえ、お互いがきちんとコミュニケーションがとれている状態で、しかもきちんとその意味合いを伝えてフォローし、しっかりレールを引いてあげると、素直な若者たちはお互いに相手に感じたことを率直に指摘し合う。こういうところはこのようにするともっと良くなると思うよ、と。

アドバイスをいただいた後、いただいた方に対して必ず次の言葉で返答するよう僕は促す。すなわち、「あなたの勇気に感謝します」。家族などの近しい関係の人でない限り、到底言いにくいことをこの場で勇気を出して言ってくれた、その「勇気」に感謝する、と。
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Disciplineという名のバンドがKing Crimsonと名を変え、1980年代初頭に突如表舞台に現れたとき、世のプログレ・ファンは一瞬驚喜したものの、次の瞬間「果たして本当に大丈夫なのか?」という不安に駆られた。

ちょうど僕が大学に入学した頃、そのバンドの初来日公演が行われたが、かつてのへヴィーなファンももちろんその来日を子どものように喜び、楽しみにした。当時の映像はVTRやLDで残っているが、時折、ギタリストが古い楽曲を弾く瞬間も捉えられており、その一瞬だけが妙に神々しいオーラに覆われていることが逆に滑稽に映って、そうそう何度も繰り返し観ていられなかったことを思い出す。

僕の周辺でもほとんどのKing Crimsonフリークはこのバンドを「Crimsonに非ず」と否定した。当然ながら僕も、ほとんど自身の率直な、あるいは直感的な見解を横に置き、そういう風潮に完璧に同調していた(とはいえ、セカンド・アルバムもサード・アルバムもオンタイムにしっかりと聴いているのだが)。

パルシファル

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ここのところ毎日のように大学に出掛けては講義をしているが、大学のレベルによって学生の就職に対する意識、行動力に歴然と差が表れるというのは面白いものである。偏差値にほぼ比例してそれらは高くなる。就職採用試験のポイントは「自己PR」と「志望動機」である。特に、「志望動機」は自身を売り込むための肝になる部分だが、これは徹底的な業界・企業研究をしない限り納得感のあるものは作れない。ことある毎に「OBOG訪問」の重要性を説いているが、頭で理解しても実際にはなかなか行動の起きない若者が多いのも事実。

午前、表参道にある某私大でエントリーシートのフォローアップ講座を受け持ったが、「OB訪問を既にしている」という学生が意外に(?!)多いことに吃驚した。さすがである。

最近では就職家庭教師なるビジネスも現れてきている。確かに能動的に動ける学生は大学側が実施するマス対象の就職講座を受講するだけで十分なのだろうが、ほとんどの学生はそれだけでは間に合わない。本人より親御さんが心配して、子どもに家庭教師をつけるようだが、これまた問題で、学生本人が受身だと教える方にとっては大変な労力を強いられる。難しいものである。

自信と客観性

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人の本性は「善」であると僕は思う。罪を犯すのは「性」ではなく体験によって蓄積された「概念」だろうと。「罪を憎んで人を憎まず」。長い間セミナーに携わってきて、何千人という人たちを目の当たりにし、僕なりにそういう結論に達している。

孤独な変人画家ラヤダーの友達は野生の鳥たち。傷ついた白雁を救ったことから、少女フリースは彼と仲良くなる。どういうわけかラヤダーはフリースにだけは心を開いた。そして、最終的に二人の友情は愛へと移り変わってゆく・・・。

人は、自分の身体が不自由だと人間嫌いになることがよくあるものだが、ラヤダーは人を憎むということを知らなかった。人間でも動物でも、自然界にあるすべてのものをこよなく愛していた。その心はあわれみと理解に満ち溢れていた。身体の不自由からくる不利な条件はすでに克服はしていたが、醜さのために、せっかくの自分の好意も、人に受けつけてもらえないことだけは、どうすることもできなかった。
ラヤダーを隠遁生活に追い込んだのは、どこへいっても、自分の心から流れ出る温かさに応えてくれるものを、見つけ出すことができなかったからである。
~(「白雁物語(スノー・グース)、ポール・ギャリコ作、古沢安二郎訳」(偕成社文庫)P14

2010年9月

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