ピアノの下に潜って

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「音浴じかん」では、ピアノの下でピアノの演奏を聴いていただくというコーナーがあるのだが、ピアノという楽器の構造上、実は下から一番良い波動を出しているようで、この体験をしていただいた人たちは皆一様に静かな瞑想状態に落ちてくれる(とても素晴らしい効果を発揮しているのだ)。

今日も、0歳児から2歳児までの4人の赤ちゃんがお母さんと一緒に1時間弱、愛知とし子の奏でる癒しの音楽に浸ってくれた。普通では味わえない新たな感覚・・・。何より不思議だったのは、演奏中でない(つまり音を発していない)ピアノの下でも、赤ちゃんたちが吃驚するほど大人しくすやすやと眠り、まったく乱れのない平穏な空気に満たされていたこと(信じられないような高次波動が発せられているのか?)。
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世間で日々物騒な事件が起こっている一方で、自宅のベランダの植物たちが雨に濡れながら元気よく生きている、そんな「生命力」を感じさせてくれる光景。
僕らが知らない、関知しない「日常」には実に様々なことがある。例えば宮崎県の家畜口蹄疫流行問題で、病気のこれ以上の蔓延を防ぐため、ワクチン注射後家畜たちが処分されるといういたたまれない出来事。人間のエゴが生み出す「世界」と、そんなものにまったく左右されず、周期的に花を咲かせ実をつける自然界の動きという対比。何だかすべてが自然や宇宙からの警告、アドバイスなのではないのか、朝、ぼんやりと外の景色を眺めていてふと思った。

自身の目先のことだけを心配するということがいかに些細で、くだらないことかを考えさせられる。ひとりひとりがもっと鳥瞰的に物事を見、判断することができたら世の中はもっと素晴らしいものになるだろうに・・・。
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ここのところ独墺系のいわゆる正統派(?)クラシック音楽から遠ざかっている。今月の「早わかりクラシック音楽講座」のテーマはまたしてもベートーヴェンなので、この天才作曲家の周辺をいろいろと聴き込んでみるべきなのだが、個人的にはさんざん聴き過ぎるくらいに聴いてきた「エロイカ」交響曲を、講座当日に新鮮な耳で捉えるためには、あえて聴かない方が良いのじゃないかという考えからそうしている。

とはいえ、面白いのはコダーイを聴こうが、ヴィラ=ロボスを聴こうが、あるいはストラヴィンスキー、はたまたエルヴィス・コステロビル・エヴァンスを聴いても、(ジャンルを問わず)ベートーヴェン以降の音楽家は、とどのつまりはこの楽聖の「革新」と「深い精神性」を(意識的であろうと無意識的であろうと)模範にしつつ、創作活動を行っていた(行っている)のだろうと思え、月並みな言い方だがベートーヴェンの(ある種突然変異的な)偉大さをあらためて知り、こと音楽に関しては、過去も未来も全部が彼を中心に派生し、回っているのではないか、すなわちつながってるのではないかと思わせられる。

コダーイの音楽

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「洞察力」にもいろいろとスキル、テクニックがあることを教わった。
なるほど、直感的に相手を見抜くということはこれまで散々やってきたことだが、統計学的に集積されたデータをもとにした「技術」として捉えていくという方法もあったんだと感心した。あくまで統計ゆえ例外もある。しかしながら、かなりの確率で正確に捉えられるというのだから、こういうことは知っていて損ではない。

もっとも、技術を知ったからといって、すぐさま「洞察力」が向上するわけではないだろう。スキルやテクニックを本物にしていくには相応の「体験」が必要になるからだ。これを機によりたくさんの方に会い、話をし、聴いてみることにしよう。

「悲しき熱帯」が滅法面白い。レヴィ=ストロースのこの体験は70年以上前のものだから、現代に照らし合わせるとその内容に一層乖離があるかもしれないが、それでも非常に説得力があり、かつリアルな筆致が刺激的。先日、この本を読みながらヴィラ=ロボスの音楽に想いを馳せ、ヒナステラなど20世紀南米の音楽を聴き、こういう民俗色の強い音楽は人の心を大いに揺さぶる要素があるものだと思った。かの地の民謡や民俗音楽なるものといわゆる西洋音楽の語法が混じることで得も言われぬ恍惚感を伴った「新しい」音楽が生まれる。古くて新しい懐かしい響きをもつ音楽たち。
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雨、である。
5月の雨はさほど鬱陶しくもなく、気持ちをあらたにできるという意味で僕的には大歓迎である。傘をさしながら、馴染んだ風景が少しばかり水っぽくなっているところが妙に美しい。特に都心を離れてみると一層「雨」の良さがわかるように思う。

大学に通う電車の中では読書をするときもあれば、ぼーっと過ごしてしまうこともある。何も考えないということではない。何となく思いついたことに思考を巡らすのである。

「変身」ということについて考えてみた。「自分を変えたい、変わりたい」と思っている人は多い。外面的な変身願望はもちろんのこと、本質的に変わりたいと思う人が多い。僕は基本的に人間の本質は変えられないと思っている。いや、もっというなら大きな意味で変える必要などないと思うのだ。ならばどうすれば良いのか?身近な人と「心をつなげられる」ようなコミュニケーションをするが良い。何でも包み隠さず話し、相手のことも受け容れ、互いに「素」の姿に戻る瞬間に「自由」が訪れる。そういうときにこそ、人は「変わった」と認識できるのだから。
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通勤、というか通学というか、往復の列車の旅は有意義な時もあれば、まったくもって無駄な時間を費やさざるを得ないときもある。昨日の古河方面の旅は車中も充実していた。同じ1時間ほどでも、今日の相模原方面への旅は疲れた。リラックスして本を読めるような雰囲気じゃなかったこと、あわせてやたらに眠くなってうとうとしてしまったこと。

時刻も関係しているのかもしれない。昨日は午前中の往復、そして本日は午後の往復。明らかに昨日の方が、頭がすっきりし、何事においても生産性が高いように思える。やっぱり人間にとって心身ともに活動的になれるのは「朝」なんだと再確認。できるだけ、重要な考え事は午前中に済ませ、夜はのんびり仕事から離れるという生活スタイルを作り上げたほうが良いだろう。

ところで、人にモノを薦めたとき、どこまで責任をとればいいのだろう?
基本的には自身の意思で選択した段階でその人の責任になると思うのだが、例えば、良かれと思って教えてあげたことが相手の意に沿わなかったり、実際その人にとっては最悪だったという場合どうすればいいのだろう?そういう不確定なものは最初から薦めないほうが無難で安全だが、それが当人にとって長い間探していたものである可能性もひょっとするとあるわけだから・・・、難しい。

あらためてヒナステラ

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いつものようにNHK-FMを何気なく聴いていたら、サー・エードリアン・ボールト指揮ロンドン・フィルによるエルガーの「エニグマ」変奏曲から第9変奏『ニムロッド』が流れてきた。ちょうど昨晩、同じエルガーの名作チェロ協奏曲を、ジャクリーヌ・デュ・プレがバルビローリ卿とプラハで協演したライブ録音を聴きながら眠りに就いていたものだから、何だかシンクロしているようで、少しばかり感激した。

そういえば、先月は「早わかりクラシック音楽講座」でホルストの組曲「惑星」を採り上げたからイギリス音楽を意識してよく聴いたからか、こうやって何となく耳にしてみると、大英帝国の何とも高尚で、かつ霧がかった(ぼんやりした、はっきりしない)独特の美しさが大変心地良く、英国音楽についてももう少し積極的に深く聴いてみたいとあらためて思った次第。

今朝、ぶらりと茨城県古河市まで足を延ばした。新宿から湘南新宿ラインで1時間ほどだから、あっという間である。ここ数年通勤に電車を利用していないためか、久しぶりに車中で読書をした。電車の中で本を読むという行為は不思議に集中できる。特に、今日のような時間帯に宇都宮方面の直通電車はほとんど空席状態で、人ごみに邪魔されることもなくとても気持ちよく書籍に目を通すことができた。
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「わからないね。民族性は関係ないと思うよ。聴き手の耳に入ってくるのは歌い手の感情であって、それは文化的な背景に関わらず、どの国の人でも、どの文化の人でも分かち合えるものなんじゃないかな。もちろん、世界の各地で違ったリズム、違った歌い方があるだろうけれど、それも互いから学び合うことができるからね。音楽は人間を分離するものではなく、一つにするものじゃないかと思う。・・・」

エルヴィス・コステロが2004年に来日した折にとある雑誌のインタビューで語った言葉である。インタビューでは、聴き手がコステロに対し、これまで共演したアーティストで再度競作してみたいのは誰かと尋ねた時、彼は、これまでやった全員とまたやりたいと答えた。それに対し、聴き手がさらに、音楽上で共演者との民族的な違いなどを意識したかと問いかけたところ上のような返答がなされたのである。

幸せよ、永遠に・・・

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kronos_quartet_bill_evans.jpg僕の人生は42歳で急展開した。
僕が結婚したのは44歳の時だった。適齢期が遅くなっている現代でも一般的な概念からいうと遅い部類に入るだろう。まったくもってそれまでは想像できなかった世界が展開する。もちろん生まれる前からこのことを想定して生まれてきたのだろうが、それにしてもこの3年間は山あり谷ありで、あっという間の、そして怒涛のような時間だった。

文章やイメージというものは、閃くときはあっという間に形になるのだが、そうでないときはどんなに考え込んでもうまくまとまらない。2,3日置こうが、1週間待とうがその状態はほぼ変わらず。多分、自身の深層心理で納得していないのだろう、それにしてもどこからどう書き始めていいのかわからないのである。いずれ(といっても時間は過ぎゆくのでそうそうは待てないのだが)インスピレーションが舞い降りてくることを期待してリラックスしてみるしかないか・・・。

鏡の中の鏡

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今日は新月だという。要らないものを処分し、願掛ければ願事が叶うという定説がある。

振り返ってみると、僕の周りは要らないものだらけだった。少なくともこの4月に住居を別にしようと引越作業をする前は、昔の「思い出」として取り置いていたものがたくさんあった。何かをするために意識的に残していたわけではない。「思い出」が詰まっている以上、単に捨てられなかったのである。

「思い出」って何なのだろう?思い残しのこだわり、すなわち「未練」なのか、それとも「過去への固執」なのか・・・?そんなものは頭の片隅にとっておけばいいものじゃなかろうか。「物」として残しておく意味(少なくとも身近に置いておく意味)はあまりないのではないかと思い、そういうものの一切合財捨てた。

そういえば、時折、過去の栄光にすがってばかりいる人がいる。する話はいつも昔話、それも自慢話。明らかに自身の成長を止めているんですよと発表しているようなものなのに気づかない。

2010年7月

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