No.027 「人はなぜ『ボレロ』にかくも魅了されるのか?」 2009/6/29

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モーリス・ベジャールが振付けた傑作のひとつであるラヴェルの「ボレロ」。もともとは女性舞踊手のための作品であったものを、ジョルジュ・ドンがソ ロを務めて以来、一躍有名になった。そして映画「愛と哀しみのボレロ」によりその圧倒的な舞踊が、モダン・ダンスなどそれまで全く縁のなかった人たちまで をも巻き込み、「ドンのボレロか、ボレロのドンか!」とまで謳われるようになり一世を風靡した。僕は残念ながら、オンタイムのファンではなかった。それか ら数年を経、ジョルジュ・ドンがもう少し年を重ねた後、毎年のようにベジャール・バレエ団とともに来日、あるいは東京バレエ団と協演するようになった頃、 すなわちその死から4年ほど前に初めてこの天才の舞踊を遅ればせながら知り、一気にファンになってしまったのである。僕は幸運にもドンの「ボレロ」の実演 を2度だけ観た。たった2度だが、東京文化会館の正面最前列で観た「ボレロ」の記憶、ジョルジュ・ドンの記憶は僕の中で決して色褪せない。

その後、ジョルジュ・ドンが亡くなってから、急速にモダン・ダンスへの興味を失い、以後かつてほど頻繁に舞台に接することはなくなった。他の誰が 「ボレロ」を踊ろうと(たとえそれがシルヴィ・ギエムといえども)、僕は観に訪れたことはなかった。それほど僕にとってドンの「ボレロ」は唯一無二であ り、大切な思い出としていわば僕の中で「封印」したのである。

そういえば、日常的にラヴェルの「ボレロ」を「音楽」としてじっくり聴いたことはここしばらくなかった。今月の「早わかりクラシック音楽講座」の テーマがラヴェルの音楽であったことから、あまり知らなかった作曲家の生涯や生き様、あるいは作品を少しばかり真剣に正面からあらためて聴く機会を得、 「ボレロ」についても新しい発見をもつことができた。「新しい発見」と言ってもそれはひょっとすると既に誰かが考えたこと、感じたことのある解釈、考え方 であるかもしれない。昨日の講座中、クリュイタンス&パリ音楽院管の音盤で「ボレロ」を聴きながら僕が考えていたこと・・・。

僕は20年にわたり人間教育に力を注いできた。体験実習やワークを通してご参加いただいた方々に「気づき」を与える仕事に従事してきた。それは個人 に向けての場合もあるし、あるいは対企業(新人研修でもマネージャー研修でも)という場合もある。いくつもある実習の中で、受講生に自身の「人生」を顧み て、自身の「生き様」というものを深く感じ、捉えていただくための重要な実習がある。実習の詳細はここでは述べないが、そのワークを通して、自分のそれま での行き方を良くも悪くも目の当たりにし、時に落ち込み反省し、時により前向きに動機を強め、行動のきっかけにするのである。この実習に「答」はない。全 く変化のない何の変哲もない毎日の繰り返しが誰の前にもある。そう、「ボレロ」のベースであるリズム・パターンのようにただただ正確にリズムを刻むように 時は流れてゆく。その上に2つの旋律が応答しながらひとつのメロディ・パターンを創出し、延々とそのメロディを繰り返すのみ。日々、決まった仕事をルー ティンとして淡々とこなすかの如くただただ繰り返すのみ。人生とはこうもつまらないものなのかと愚痴をこぼす輩もいるだろう。同じやるなら楽しもうじゃな いかと一生懸命ベストを尽くして動き出す人間がいてもおかしくはなかろう。しかし、ほとんどの場合、同じ繰り返しの中に「喜び」を見出せず、腐ってしまう 人が大半なのである。
ちなみに、モーリス・ラヴェルの創作した「ボレロ」は一味も二味も違う。毎回ソロとなる楽器を変え、組み合わせを変え、聴衆 を飽きさせない。そして、ソロを与えられた奏者はとにかく最高の技量を要求され、最高の演奏をするよう求められる。様々な楽器との絡みの中でシンプルな旋 律を聴き応えある音楽として表現しなければならないのである。手を変え品を変え、その旋律はどんどんクレッシェンドし、最後は全楽器の全奏で大団円を迎え る。そう「ひとつになる」のだ。
誰かと絡みながら螺旋階段を大きく成長しながら登り詰めていく、まさに人生を象徴するかのような音楽。僕はこの何 でもない音楽の中に一種のエクスタシー(恍惚感)を感じる。人は独りでは生きていけないのだ。誰もが人との関係性の中でお互いに切磋琢磨しながら生きてい るのである。そして、日々「同じことの繰り返し」の中においても後ろ向きになることなく、創意工夫をし、新しさを発見し、追求することで、最後は「ひとつ になる」という感覚を体感できるのである。
一瞬一瞬、気を抜くことなく、与えられた課題に挑戦し、お互いに助け合い、成長していくことの大切さ、そしてそういう生き方は誰にでも可能なんだということをこの「ボレロ」という音楽は教えてくれている。

モーリス・ラヴェル自身は「ボレロ」初演当時、次のように述べている。
私は自分の「ボレロ」に関して誤解のないように特に望んでいま す。これは非常に特別の限られた方向の実験であり、実際に達成した以外のこと、またはそれ以上のことを目指したと思われては困ります。初演の前に、私は警 告を出し、自分が作曲したのは17分間続き、もっぱら、音楽のない管弦楽の織物から成り立っており、非常にゆっくり大きくなっていくひとつの長いクレッ シェンドで出来ている曲だと述べました。この曲にはコントラストがなく、プランや演奏の方法以外には事実上、何の創意もありません。主題は没個性的で、お 決まりのスペイン=アラビア的なものです。
(~ラヴェル-生涯と作品アービー・オレンシュタイン著)

彼にとってはあくまで実験作。しかし、実験的といえども、宇宙万物の根源的なもの、そして人間として生きる上での大切なことがこの音楽に潜んでいるとするなら、人々が「ボレロ」という音楽にかくも惹かれる理由がわかるのではないだろうか。