そこまでやるかというくらい「攻め」のモーツァルト。
ルバートを効かせ、時にアクセル全開前のめり、思わぬ箇所で急ブレーキ。自由闊達、ピアニストは内心ほくそ笑む。即興心溢れるモーツァルトは何て刺激的なのだろう。
現実世界から離れ、カルマを解放せよと彼は言う。
同時にまた、常識という枠を超えよと彼は言う。
何十年という時が、僕の感覚すら変えてしまったのかどうなのか、以前は、いくらなんでもちょっとやり過ぎだろうと拒否感すら覚えたエリック・ハイドシェックのモーツァルトが、何て神々しく響くことだろう。
モーツァルトを演奏するには、ただ楽譜を忠実になぞるだけではだめだ。といって、何か計算をして構えれば、もっと遠いところへ行ってしまう。ましてやつまらない自己主張をしようとすれば、モーツァルトの方から逃げてしまう。
「先生、一体どうすればいいんですか」
「そこから入りなさい」
「そこってどこですか」
「知らん(不識)」
と達磨大師は答える。
—そんな禅問答があるかどうかは知らないが、モーツァルトがその人に向かって微笑むかどうかは、単なる努力や意識の果てにあるのではなくて、一瞬、おのれを「無」にした人に降ってくる「天啓」みたいなものではないかと思う。
~高橋英郎著「モーツァルト—遊びの真実」(音楽之友社)P431
高橋英郎さんはうまいことをおっしゃる。まさに「無私」の「天啓」。
モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集VOL.2
・ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調K.282
・ピアノ・ソナタ第5番ト長調K.283
・ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K.457
・ピアノ・ソナタ第15番ハ長調K.545
・ピアノ・ソナタ第2番ヘ長調K.280
エリック・ハイドシェック(ピアノ)(1991.1.15-17録音)
ハイドシェックはたぶん夢を見ているのだと思う。
一点集中し、恍惚の表情で鍵盤をなぞる様。ムラのある彼の演奏は、それであるがゆえに時折、爆発的な、想像を絶する名演奏を繰り広げる時がある。
5年前に聴いて以来僕は実演に触れていない。あの時の彼は全盛期の神がかった境地を自らかなぐり捨てるかのように、好々爺然としてありきたりの演奏しか見せてくれなかった。さすがに年齢には逆らえないのか。
久しぶりに聴いたハイドシェックのモーツァルトに僕はとても感激している。
ザルツブルク時代の可憐な名作も、ウィーン時代晩年の傑作も、ハイドシェックにしかできない軽業で、奔流する音に飲まれ、静かに佇む緩徐楽章に涙する。K.545第2楽章アンダンテは、6分41秒のドラマ。続く終楽章ロンドの何という理想的テンポ。そして、K.282は、8分15秒を要する第1楽章アダージョが極めつけ。この透明な、浪漫の味付けは天下一品!
自分が心に描いた音楽を楽譜の上により明確に表現するようになったのはベートーヴェンが初めてである。
モーツァルトの場合は、我々のイマジネーションに委ねられているのだ!
(エリック・ハイドシェック)
~VICC95ライナーノーツ
イマジネーションの宝庫!
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[…] わずか10日の間に生み出されたモーツァルトの作品たちの奇蹟! ピアノ三重奏曲第5番ホ長調K.542、交響曲第39番変ホ長調K.543、小さな行進曲ニ長調K.544(紛失)、ピアノ・ソナタ第15番ハ長調K.545、そして、弦楽四重奏のためのアダージョとフーガK.546。言葉がない。 […]