ヨッフム指揮ウィーン・フィルのモーツァルト「ジュピター」K.551ほか(1981.9.20Live)を聴いて思ふ

ライヴのカール・ベームにあるのは、無理のない燃焼から生じる自然体にある。文字通り謙虚な姿勢から生まれたモーツァルトは、とても素晴らしかった。

ベームは、モーツァルトを演奏するときに、なにかモーツァルトに限る特別の演奏法、特別の音づくりをしようとしていたようには思えない。ベームの音楽に特有の、過剰な表現を避け、控え目に、謙虚に、抑制と節度とを以て演奏する態度、あるいはリズムをきちんと取り、各声部間にきっちりしたバランスをもたらすなどの彼特有の清潔な音作りというものは、他の作曲家の音楽を演奏する時と同じであって、なにも彼がモーツァルトを演奏する時に限って見せるものではない。
(石井宏「モーツァルトの場合・・・交響曲・オペラ作品をめぐって—近代的知性によって拓いた新しいモーツァルト観」)
~「レコード芸術」1981年12月号P186

それこそが彼の基本的態勢なのである。

確かにベームが振ると、ウィーン・フィルも、シュターツオーパーもピリッとひきしまる。そうした現場を何度も見ている内に、もうこれは指揮のテクニックとか、指揮者の音楽性とかいった問題ではないな、と真実そう思った。それらを超えて、ベームという人間の《格》とか《徳》とか、そういう彼の存在そのものが、楽員から音楽をひき出してしまう。あの指揮ぶりを見ているかぎり、そうとしか言いようがないのだ。
(佐野光司「ブラームスの場合・・・〈交響曲第4番〉をめぐって—《表現》という作為性を超えた地平で、自己に肉化した音楽」)
~同上誌P212

老練の人間力ということだ。

ベームが亡くなった1ヶ月余り後のウィーン・フィル定期演奏会は、奇しくもオイゲン・ヨッフムの棒によるものだった。かの巨匠を追悼してだろう、冒頭でモーツァルトの「フリーメイスンのための葬送音楽」が厳粛に、また感動的に奏されているのだが、それは本当に、筆舌に尽くし難い哀歌として、この世のものと思えぬ美しさをもって聴く者に迫ってくるのである。

30秒ほどの黙祷の後の「ジュピター」交響曲には、まるでベームの魂が乗り移っているかのようだ。脱力の、しかし、想いのこもる第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの主題から音楽は悲しく響く。あのアポロンの、堂々たる音楽が、沈みかえった音調で、重く深く鳴り渡るのである。続く第2楽章アンダンテ・カンタービレの涙なくして聴けぬ優しさ。また、第3楽章メヌエットに内在する巨大な生命力。白眉はやはり終楽章アレグロ・モルトだ。モーツァルトの最高傑作が、ヨッフムの自在の指揮によってうねりを増し、ほとんど天上にまで届くような音調。これぞ輝かんばかりのフーガの魔法。

・モーツァルト:フリーメイスンのための葬送音楽K.477
・モーツァルト:交響曲第41番ハ長調K.551
・ブラームス:交響曲第2番ニ長調作品73
オイゲン・ヨッフム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1981.9.20Live)

ゆったりと始まるブラームスの交響曲第2番第1楽章アレグロ・ノン・トロッポも、ベームを悼む調子が横溢する哀感の音楽。何と壮絶な響きであることか。しかし、それ以上に深い悲しみを表すのが第2楽章アダージョ・ノン・トロッポ。低弦の慟哭に支えられ高弦が泣く。ここでのヨッフムは一層感じているようだ。第3楽章アレグレット・グラツィオーソは、ピツィカートの伴奏音形を強調し、少々おどけた様子を演出する。そうして、抑えに抑えていた感情が、対に爆発する終楽章アレグロ・コン・スピーリトの凄さ!特に、コーダに向かっての咆哮。一世一代、終演後の聴衆の猛烈な拍手喝采がこの日の演奏の素晴らしさを物語る。

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