第45回 早わかりクラシック音楽講座 2011/5/4(Wed)

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「1900年代パリ~ドビュッシーとその周辺」

内容
≪ 1900年代パリ~ドビュッシーとその周辺 ≫
第1部:ピアノ生演奏(Piano:愛知とし子)
第2部:恋愛遍歴、エンマ・バルダックとの恋、生い立ち
第3部:傑作交響詩「海」を聴く
-お茶とお菓子付-

ゴールデン・ウィークということも影響しているのでしょうが、久しぶりに少人数での開催となりました。まずは、いつものように愛知とし子の演奏からスタートしました。

第1部
□ピアノ生演奏(Piano:愛知とし子)
①ドビュッシー:アラベスク第1番
②ドビュッシー:小さな黒人

1888年に作曲されたアラベスクは、ドビュッシーの初期の傑作の一つです。わかりやすく美しいメロディが特長で、一度耳にすると誰もが好きになるであろう音楽。そして、2曲目は、作曲家として不動の地位を築いた時期、1909年に生み出されたいかにもドビュッシーという作品を。青年期と壮年期との作風の変化を意識しながら愉しんでいただきました。

写真 002

第2部
□恋愛遍歴、エンマ・バルダックとの恋、生い立ち
音楽を理解する上で、作曲家の生い立ちや経験を知っておくことはとても重要です。たとえば、ドビュッシーが活躍した1900年代のフランス、パリは絢爛豪華な雰囲気を醸し出し、東洋文化の影響を直接的に受けた時代でした。そこにはディアギレフ率いるバレエ・リュスの存在があり、ストラヴィンスキーやラヴェル、あるいはサティらがこぞって斬新で個性的な作品を世に送り出していました。もちろんドビュッシーよりも年長のフォーレやサン=サーンスという一世代上の作曲家たちもまだまだ活躍していた、そんな素敵な時代です(ちなみにお隣りのオーストリアではマーラーがアルマと結婚し、交響曲を次々と生み出していました)。

幼少期、貧しい家庭に育ち、食べるために親戚中をたらいまわしにされたドビュッシーは、物心ついた時から気難しい性格だったと言われています。若くして入学を許されたパリ音楽院においても教授の指導に文句ばかり言い、授業では伝統を破壊するような言動だったようで、旧態依然とした音楽の世界では煙たい存在だったかもしれません。しかし、そういう性格のおかげで常に斬新なものを生み出せたということもいえるのは間違いないと思われます。

ところで、破天荒なドビュッシーは、もちろん女性関係についても常軌を逸する、非常識な側面をもっていたようです。1893年~98年はギャビー・デュポンと愛人関係にあったものの、99年には突然ギャビーを捨て、リリー・テクシエと結婚。結婚生活が順風満帆にいくかに見えた矢先、運命の出会いが待ち受けます。後に2番目の妻となったエンマ・バルダック夫人との邂逅。夫人の息子だったラウルのピアノ教師だったクロードは99年10月のある日バルダック家に妻ともども招きを受けました。素人ながら世間も認める歌手であったエンマにドビュッシーが興味を持たないはずがありません。数年の後、2人は恋に落ち、1904年初夏ついに妻を捨て、駆け落ちをするという事態にまで発展しました。

このエンマとの関係の中で作曲された作品は数多くにのぼります。
まずは、初めて「バルダック夫人」と楽譜に書かれた歌曲が誕生します。シャルル・ドルレアンとトリスタン・レルミートの詩による「フランスの3つの歌」がそれです。

①フランスの3つの歌~ロンデル-冬はその衣を残して、死の安らぎに
ジェラール・スゼー(バリトン)
ダルトン・ボールドウィン(ピアノ)

そして、1904年6月6日には歌曲集「艶やかな宴」第2集をエンマに贈りました。

②歌曲集「艶やかな宴」第2集
ジェラール・スゼー(バリトン)
ダルトン・ボールドウィン(ピアノ)

いかにもドビュッシーらしい新しい響。まるでシャンソンのような、いかにも現代のポピュラー音楽につながる印象を受ける素敵な歌曲集です。

クロードとエンマのいわゆる不倫の恋は、世間をも巻き込みます。10月13日、妻のリリーが一命をとりとめるもののピストル自殺未遂。そのことがフィガロ紙にスキャンダル記事として掲載されてしまいました。結果的に多くの友人達が彼を非難し、離れてゆきましたが、変わらぬ態度で接したのはデュランやサティという一部の人たちだけのようでした。

そんな時期にコロンヌ演奏会で「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」が初演されました。当然評価はあまりよくなかったようです。例えば、フォーレは個人的な見解も含めながらこの曲について批判をしました。

③神聖な舞曲と世俗的な舞曲
リリー・ラスキーヌ(ハープ)
ジャン=ピエール・ランパル指揮パイヤール室内管弦楽団

東洋的なエキゾチックな旋律が随所に現れる美しい音楽です。フォーレの批評についてもわからなくはないですが、多分に個人的嫉妬もあってのことだと推測します。

というのも、それより10年ほど前、ガブリエル・フォーレもエンマ・バルダックにぞっこんだった時期があったからです。フォーレもエンマにインスピレーションを受け、作品を残しています。

④フォーレ:夜想曲第6番、舟歌第5番
ジャン・ユボー(ピアノ)

⑤フォーレ:ピアノ連弾組曲「ドリー」~第1曲子守唄
エリック&ターニア・ハイドシェック(ピアノ)

ドビュッシーとは明らかに異なる手法とイマジネーション。フォーレのエンマへの愛が充分に感じ取れる傑作です。比較の意味で、エンマとの逃避行の際に生み出されたドビュッシーのピアノ作品を1曲。

⑥ドビュッシー:喜びの島
ミシェル・ベロフ(ピアノ)

閑話休題。

エンマの離婚が1905年12月に成立。晴れて二人は夫婦になりました。ちょうどその頃創作されていたのが、名作「海」です。この楽曲は、ジャポニズムの多大なる影響を受けていた当時のヨーロッパにして、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の有名な絵画からインスピレーションを受けたといわれています。休憩後、2種類の音盤で堪能しました。

写真 003

第3部
□傑作交響詩「海」を聴く
どうして「海」を題材にしたのか。先の述べたように北斎の絵からの影響の他に、子どもの頃から船乗りを夢見ていたドビュッシーが壮大な海を音楽にすること、そして子どもの頃から母の愛が不足していたであろう作曲者は海に母というものを投影し、母への想いを音楽にしたのではないか、などと想いを巡らしながら聴いてみました。

ドビュッシー:3つの交響的スケッチ「海」
⑦ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団
⑧シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団

それまでの西洋古典音楽の根底にある形式理論をある意味無視したこの革新的な作品をなんども繰り返し聴くことで、ドビュッシーの真の意味がわかったように思います。その後のポピュラー音楽に通じる、ジャズやロック音楽に通じる、そのルーツがこの時代のフランスにあったんだということも理解できます。