第32回 早わかりクラシック音楽講座 2009/11/23(Mon)

Home > Archives > 第32回 早わかりクラシック音楽講座 2009/11/23(Mon)

「天才と皮肉屋は紙一重?~サン=サーンス:オルガン交響曲」

内容
≪ 天才と皮肉屋は紙一重?~サン=サーンス:オルガン交響曲 ≫
第1部:サン=サーンスの生い立ち、そして人となり
第2部:サン=サーンス、フォーレ、ラヴェルという系譜
第3部:名作・交響曲第3番「オルガン付」を聴く
-お茶とお菓子付-

第1部
□サン=サーンスの生い立ち、そして人となり
幼い頃から神童として名を馳せ、音楽家として活躍したほか、詩、天文学、数学、絵画などで並々ならぬ才能を発揮した19世紀フランス音楽界の重鎮、カミーユ・サン=サーンスを今回は採り上げました。

1835年10月9日、パリで生まれたサン=サーンスは生後2ヶ月で内務省役人だった父を亡くし、母親と叔母によって育てられます。ピアニストであった叔母シャルロットより3歳になる前からピアノの手ほどきを受け、みるみる才能を開花させ、5歳になる前には作曲をし、人々を楽しませる演奏をする神童として有名になりました。1848年、13歳の時パリ音楽院に入学、オルガンを学び、1851年に1等賞を受賞。その後、ローマ賞を狙うも失敗、という経歴ながら、とにかくリストが賞賛するほどのオルガンの腕前で、ピアニストとしても演奏旅行を頻繁に敢行するほどのテクニックを持っていました。
1861年、ニデルメイエール音楽学校の教師の職に就き、弟子となるガブリエル・フォーレに出会い、以降1921年に亡くなるまで彼とは厚い友情で結ばれる関係となりました。
まずは、音楽学校在職時の1863年、28歳の時に作曲されたエキゾチックな名曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」を。

①序奏とロンド・カプリチオーソイ短調作品28
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
シャルル・デュトワ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

サン=サーンスの音楽というのは意外に一般的に認知されているものと勘違いしておりましたが、日常的にクラシック音楽を聴かない方々にとっては初めての音楽が多かったようです。とはいえ、当時の名ヴァイオリニストパブロ・デ・サラサーテ(ツィゴイネルワイゼンの作曲家)のために書かれたこの音楽は皆さんに気に入っていただけたようです。なによりチョン・キョンファの鬼神が乗り移ったようなプレイが聴きモノです。

そして、1871年、36歳の時に国民音楽協会を設立、当時ドイツ古典派の名曲か軽薄なオペレッタが主流であった音楽界に働きかけ、フランス近代の器楽曲の名作を生む礎を作りました。1875年、40歳の時に若きマリ・ロール・エミリと結婚、子どもをもうけるも、78年、事故と病気により相次いで2人の息子を亡くします。直後妻とも離婚、その年はそれまで順風満帆だったサン=サーンスの人生で最悪の年になったのです。それでも相変わらず創作意欲は衰えず、しかもその悲劇をまったく感じさせない明朗で快活な音楽をその後もたくさん生み出してゆくのです。

写真 003

第2部
□サン=サーンス、フォーレ、ラヴェルという系譜
人間サン=サーンスは様々な側面をもっていました。例えば、その広い交友関係。ロッシーニ、ベルリオーズ、リスト、ワーグナーなど先輩たちからは可愛がられ、サラサーテ、ビゼー、フォーレ、国民音楽協会の多くの仲間、ルビンシテインやチャイコフスキーなど、そうそうたる顔ぶれ。またヴィクトリア女王、画家のドレや作家のフローベール、ツルゲーネフらとも友人関係にありました。
それは、若い頃から演奏や作曲に類稀な力量を発揮したこと、子どもの頃から古典やラテン語を学び、文学、哲学、天文学、考古学等に強い興味を示した豊かな教養人で、好奇心旺盛という性格が影響しているのかもしれません。

音楽的な功績としては、当時フランスであまり好まれなかったワーグナーやシューマンの音楽を熱心に広め、友人リストやベルリオーズの作品も積極的に紹介、バッハの復興にも力を貸したことでしょう。一方、20世紀に入ってからの若い作曲家の作品はまったく理解できなかったようで、ラヴェルの「水の戯れ」には全編不協和音に満ちていると酷評し、ストラヴィンスキーの「春の祭典」には恐怖を覚え、ドビュッシーにいたっては全く理解できなく敵対関係にありました。

ただし、教師としてのサン=サーンスの腕は相当なもののようで、生徒たちの霊感を刺激し、おのおのの個性を伸ばそうとする教授方法だったようです。

第2部では、まずサン=サーンスが愛した音楽、あるいは理解できなかったという音楽を聴いてみました。

②フォーレ:夜想曲第2番ロ長調作品33-2
ジャン・ユボー(ピアノ)
愛弟子フォーレが1881年頃に作曲した美しい傑作。サン=サーンスの愛奏曲です。

さらに、印象主義の幕開けとなったラヴェルの「水の戯れ」。
③ラヴェル:水の戯れ
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
1901年に作曲されたこの音楽を当時サン=サーンスは酷評しました。実際に今聴いてみると「噴水」の様子を見事に表現しており、参加者の皆さんには好評な音楽でした。

さらに、ドビュッシーの音楽も。
④ドビュッシー:前奏曲集第1巻~第1曲「デルフィの舞姫」
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ)
1909年、ルーヴル美術館の彫刻にインスピレーションを受け作られた名曲。サン=サーンスはドビュッシーの音楽は全く理解できなかったようです(この前奏曲集についてはどのように感じたのか不明ですが)。

さらに、1886年、オルガン交響曲と同年に生み出されたサン=サーンスの作品の中でも最も有名である組曲「動物の謝肉祭」を。

⑤組曲「動物の謝肉祭」
パスカル・ロジェ(ピアノ)
シャルル・デュトワ指揮ロンドン・シンフォニエッタほか

第13曲「白鳥」のみ圧倒的に有名なこの組曲は、その「白鳥」を除き、生前出版が許されなかった代物で、作曲者自身はまったく評価していなかった作品ですが、その作品をもってサン=サーンスの代表作となっていることはまったく皮肉なものです。しかしながら、そのパロディに満ちた音楽は、どこか映画音楽にも通じる「親しみやすさ」を持っており、今回参加いただいた皆さんの受けもよかったように思います。

写真 004

休憩を挟み、

第3部
□名作・交響曲第3番「オルガン付」を聴く
本日のメイン・テーマである交響曲第3番「オルガン付」を聴きました。
1886年、5月19日ロンドンにて作曲者自身の指揮によって初演。出版に際し、同年7月31日に亡くなったリストへの献辞が書き込まれているこの壮大な音楽は、空前の大成功を収めたということです。
1887年1月のパリ初演を聴いたフォーレは次のような手紙を送っています。
「私がどんなに楽しんだか、あなたには想像がつかないことでしょう。私は楽譜を持っていたお陰で、私たちの年齢を足したよりももっと生き永らえるに違いないこの交響曲の音を、一音も聴きもらさなかったのですから」(ジャン=ミシェル・ネクトゥー著「サン=サーンスとフォーレ 往復書簡集」より)

フォーレの言葉通り、実際に発表から百数十年を経た現代にも聴き継がれているこの傑作をシャルル・デュトワ盤でじっくり堪能していただきました。

まずは、この音楽が大聖堂の中で繰り広げられる教会音楽を想定しており、死者を弔うグレゴリオ聖歌の「怒りの日」の音形がモチーフとして使われているということで、その「怒りの日」を抜粋で。

⑥グレゴリオ聖歌「ディエス・イレ(怒りの日)」
エンリコ・デ・カピターニ指揮スコラ・スティルプス・イェセ

そして、その旋律をいち早く音楽に導入したベルリオーズの名作「幻想交響曲」第5楽章の冒頭から当該部分までを。
⑦ベルリオーズ:幻想交響曲作品14
シャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団

さらに、同じく「怒りの日」によるパラフレーズとしてリストが発表した「死の舞踏」を抜粋で。

⑧リスト:死の舞踏
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ)
小澤征爾指揮ボストン交響楽団

近代ヨーロッパ音楽の中で、この「怒りの日」の旋律がこれほどまで多用されていることに少々驚きを感じながらも、キリスト教文化の中で育っていない我々にはなかなか理解しがたい点でもあることを悔やみつつ、本題に入りました。

⑨サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付」
ピーター・ハーフォード(オルガン)
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団

デュトワの傑作。全楽章が有機的に絡み合い、見事な統一感を感じさせる名演奏に、参加者一同感動しておりました。

写真 005

次回は、今年最後の講座、シューベルトの生涯に迫ります!