第34回 早わかりクラシック音楽講座 2010/1/31(Sun)

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「ムソルグスキーの傑作・組曲『展覧会の絵』」

内容
≪ ムソルグスキーの傑作・組曲『展覧会の絵』 ≫
第1部:生い立ち、青年時代~作曲家としての自立、「ボリス・ゴドゥノフ」の時代
第2部:1874年、組曲「展覧会の絵」完成
第3部:1922年、ラヴェル版を聴く~破綻の晩年、そして死
-お茶とお菓子付-

第1部
□生い立ち、青年時代~作曲家としての自立、「ボリス・ゴドゥノフ」の時代
ムソルグスキーとは誰だったのか?それは極めて難問です。42年という人生の中で彼が遺した完成作は決して多いとはいえません。多くの作品が中途半端に投げ出され、スケッチでのみ残されているのです。類稀なピアノの名手、そして結婚も自分の家を持つことも生涯なかった彼。1861年2月の農奴解放令を機に、ロシアの国内は大きく揺らぎます。地主の次男だったモデストの生活は貧困への一途を辿り、最後はホームレス的身分に落ちぶれてゆくのです。当時のロシアでは、ほとんどの作曲家が職業として認められることはなく、同様な立場におかれていたといいます。そういう社会的状況の中で公務員として生計を立てながら、自作を創造し、現代においても語り継がれ、その作品が聴き継がれているムソルグスキーとは本当の意味での天才だったのかもしれません。

モデストは、1839年3月9日にプスコフ県トローペツ郡カーレヴォ村に地主の次男として生を得ました。母親から音楽の手ほどきを受け、7歳で早くもリストの小曲を弾きこなしています。芸術好きの父は、少年の才能を伸ばすためにアントン・ゲールケを先生に迎えました。モデストはみるみる才能を発揮し、13歳でピアノ小品「旗手のポルカ」を作曲します。

そのモデストの転機は、1856年、17歳の秋にアレキサンドル・ボロディンと出会ったことでしょう。何度か会ううちにミリイ・バラキレフと知己を得、バラキレフについて作曲を学ぶようになるのです。ボロディンの回想からは、「ムソルグスキーの進んだ音楽知識に驚嘆した様」や「ムソルグスキーの演奏に圧倒された」様子がまざまざと伺えます。

当時のロシアはクリミア戦争での敗北などの影響もあり、ロシアの後進性に疑問が投げかけられていた時期でした。大改革の手段として発布された「農奴解放令」により、地主階級は改革後にも自己の権益を最大限保持するために様々な係争に巻き込まれてゆきました。ムソルグスキー家も同様です。そんな環境の中、1863年からモデストは仲間との共同生活をスタートし、一方で役所で働き始めるようになりました。そして、1865年3月の母の死をきっかけにアルコール漬けの生活に入ってゆくのです。
この頃、生み出された音楽に名作「はげ山の一夜」があります。おそらくムソルグスキーの音楽の中で最も有名なものでしょう。

①交響詩「はげ山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編曲)
ワレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

よりむき出しで荒々しいムソルグスキー原典版との聴き比べを試みられればなお良かったのですが、時間の関係上、今回は洗練されたリムスキー版で全曲を通して聴いてみました。

以降、モデストは作曲家として自立してゆくわけですが、例えば1868年から70年にかけて創られた歌曲集「子ども部屋」などは、当時キュイーやバラキレフ、あるいはリムスキーからも正当に評価されなかったものの、ワイマールのリストからは絶賛されました。これは、いかにリストの審美眼が凄いものであるのかを知らしめるエピソードでもあります。

役所での仕事を地道に続けながら、モデストはいよいよロシア・オペラの最高傑作と謳われる「ボリス・ゴドゥノフ」の作曲を始めます。1869年に一旦完成するもマリインスキー劇場の管理委員会では不採用になり、ただちに改作作業に着手、大幅に改訂を施して、ついに1874年1月27日に初演、圧倒的な成功を収めます。ただし評論家含め専門家からはさんざん貶されたようです。お陰でムソルグスキーはますます酒量が増え、アルコール中毒患者に陥ってゆくのです。

写真 001

第2部
□1874年、組曲「展覧会の絵」完成
1874年2月~3月に開催されたヴィクトル・ガルトマンの遺作展にインスパイアされ、遅筆のモデストにしては珍しくわずか3週間で名作「展覧会の絵」を生み出しました。しかしながら、曲は出版されず、ムソルグスキーの生前には演奏されないどころか、存在すらほとんど注目されなかったようです。
まずは、このムソルグスキーの原曲、ピアノ版をじっくりと聴いてみました。

②組曲「展覧会の絵」
イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)

ポゴレリッチ独特のピアニズムを存分に堪能しながら、むき出しのムソルグスキーを皆で味わいました。心にビンビン響く圧倒的音量と感性です。心地良い緊張感が部屋中に溢れ、参加者の皆さんにも相当気に入っていただけたようでした。

第3部
□1922年、ラヴェル版を聴く~破綻の晩年、そして死
「展覧会の絵」が有名になったのは、1922年にボストン響の指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーがモーリス・ラヴェルに管弦楽化を委嘱し、ボストンで初演されて以降注目を浴びるようになってからです。現代のコンサートにおいてもはやオーケストラにとって避けて通れないほどのポピュラーなレパートリーになっているこの音楽は、実はラヴェル版の存在なくしては語れないものなのです。
次に、ラヴェル編曲版を全曲通して聴いてみました。

③組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編曲)
ワレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

オーケストラの魔術師といわれるラヴェルのオーケストレーションはさすがです。ムソルグスキーの原曲が作曲者の「むき出しの魂」を表すのに対し、お洒落な化粧を施したセンスのある耳障りの良い音楽となっています。どちらも「展覧会の絵」に相応しい姿だと思いますが、聴後、参加者に感想を伺うと、ほとんどがムソルグスキーの原曲に軍配を挙げました。

1875年6月、アパートを家賃滞納のため追い出されたムソルグスキーはいよいよ不健康な生活をスタートさせます。酒に耽る日々。そのお陰で最終的に役所も解雇されてしまうのです。1881年2月4日、1月28日に亡くなった作家ドストエフスキー追悼の文学の夕べで「『ボリス』の最後の場面で響く葬送の鐘」に似た音楽を即興演奏したのが公での最後の舞台になったようです。2月11日、「もうどこにも行くところがない、通りにいるしかない」とレオーノヴァに相談、レオーノヴァは彼を自分の自宅に受け容れました。

そして2月13日、ニコラエフスキー陸軍病院に入院。3月2日~5日には画家のレーピンが病院を訪れ、有名な最後の肖像画を描くのです。兄のフィラレートがお見舞いに来て、置いていったお金で厳禁されているお酒を買い、それが直接の原因で3月16日に永遠の眠りにつくのです。

ロシア音楽史上有数の天才がわずかな期間に書き上げた「展覧会の絵」。この音楽ほど後の世代の様々な音楽家に影響を与えた作品は少ないでしょう。ラヴェル以外にも様々な音楽化が管弦楽化に挑戦、さらには1970年にはエマーソン・レイク&パーマー(EL&P)がロック音楽化、一世を風靡します。冨田勲のシンセサイザー版、あるいは山下和仁のギター版など今回の講座で紹介しきれなかった名作が数多く存在するのです。
講座の最後に、中からEL&Pのバージョンを冒頭と後半部を抜粋で聴き終了しました。

写真 008

あっという間の3時間でしたが、参加者の皆さんには聴き比べの醍醐味を味わっていただけたようです。
次回はイギリスの作曲家ホルストの名作、組曲「惑星」を採り上げます。なお、当初2月21日(日)に実施予定でしたが、諸般の事情により2月27日(土)に変更させていただきます。ご了承よろしくお願いします。