「愛の音楽家エドワード・エルガー」
内容
≪ 愛の音楽家エドワード・エルガー ≫
第1部:エルガーの人生~生い立ちと作曲家としての初期
第2部:エルガーの人生~全盛期&晩年期
第3部:名作チェロ協奏曲を聴く
-お茶とお菓子付-
第1部
□エルガーの人生~生い立ちと作曲家としての初期
楽器商であり、セント・ジョージ・カトリック教会オルガニストでもあった父ウィリアム・ヘンリー・エルガーと母アン・グリーニングのもと、1857年6月2日、ウスター近郊のブロードヒースにて生まれたエドワードは、父の作った音楽的環境の中ですくすくと育ち、様々なことを学びました。1866年、9歳の時に初めて生のオーケストラに衝撃を受け、そのことが後の作曲家としての大成につながる最初の体験になりました。この頃、ベートーヴェンの「田園」交響曲に夢中になっていたということで、幼少児から「自然」というものを愛する人だったことがわかります。
15歳の時、学校を卒業するものの、経済的事情により専門的音楽教育を受けられず、エドワードは独学で作曲法を修得しました。そして、ヴァイオリン教師などをして収入を得ながら、たびたびロンドンに出かけてシューマンやワーグナー等の音楽を聴き、影響を受けました。
1886年10月6日、この日はエドワードにとって特別な日となります。後に妻となるキャロライン・アリス・ロバーツが彼の教える音楽教室に入門してきたのです。恋に陥った二人は1888年婚約、周囲の反対を押し切り、1889年5月8日に無事結婚しました。この時、」エドワード32歳、アリス40歳という年上女房でした。
婚約に際し、エドワードがアリスのために作曲した小品「愛の挨拶」は、出版されるや爆発的に売れ、人気曲となりました。しかしながら、当時買取だったため結果として出版社が大儲けをしただけに過ぎなかったということです。この当時、エドワードの仕事は地元の合唱音楽祭のために作品を委嘱される程度でしたが、アリス夫人の多大な協力のもと徐々に作曲家として認められていくようになります。「内助の功」というか、やはり女性の力、サポートというのは重要ですね。
1890年8月14日には一人娘のキャリス・アイリーンが誕生するのですが、後にキャリスが語った言葉がエドワードのアリスの関係を如実に物語っており、アリス夫人の存在なくして作曲家エドワード・エルガーはこれほどまでに名声を得ることがなかったと言っても言い過ぎではないように思えます。
「母は物書きになりたいという夢を諦めて、父の成功を助けることに誇りを感じていた」
(キャリス・アイリーンが後に語った言葉)
まずは、ここでエルガーの代表作「愛の挨拶」を聴きました。
①愛の挨拶
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
フィリップ・モル(ピアノ)
この可憐で美しい旋律はいつ聴いても心が穏やかになります。愛する恋人に贈ったエルガーの「優しい心情」が全編に溢れています。
第2部
□エルガーの人生~全盛期&晩年期
1899年、ハンス・リヒター指揮による「エニグマ」変奏曲初演の大成功により、エドワードはようやく作曲家として一流の仲間入りを果たします。自身に関係のある知人友人などをモチーフにそれぞれの変奏を書いたこの音楽は、エルガーらしい高貴さと、同時に親しみやすさを合わせ持った佳曲です。後半部を聴きました。
②「エニグマ」変奏曲作品36~第9変奏~第14変奏フィナーレ
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
第9変奏Nimrodは単独でも頻繁に採り上げられるというほど、本国では有名な音楽ですが、本当に哀感に溢れた名曲です。第9変奏以降をじっくりと聴きましたが、ウィーン・フィルの美音と相俟ってすんなりと心に届きます。
1900年、オラトリオ「ゲロンティアスの夢」のドイツ初演の大成功により彼の名声はいよいよヨーロッパ中に広まりました。以降、20年ほどは作曲家エドワード・エルガーのいわゆる全盛期となります。1901年、行進曲「威風堂々」第1番が作曲、初演。特に中間部の旋律は国王エドワード7世に大変気に入られ、歌詞をつけられました(希望と栄光の国)。
③「威風堂々」第1番ニ長調作品39-1
アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
いまや世界中の誰もが知るであろう名作です。ディズニーの「ファンタジア2000」でも採り上げられています。プレヴィンの堂々としながらも洒落た棒さばきが見事です。
その後、1904年頃には押しも押されぬ世界的有名な作曲家になり、王室からナイト爵位を授かりました。
1908年にはいよいよ交響曲を発表。「表題性のない絶対音楽こそ最高の芸術」と言うエルガーにとっては悲願でした。この曲について指揮者のアルトゥール・ニキシュは「ブラームスの第5」と評し、ハンス・リヒターは緩徐楽章を指し、ベートーヴェンのそれに匹敵すると絶賛しました。リヒターが賞賛を惜しまなかったアダージョ楽章を聴きました。
④交響曲第1番変イ長調作品55~第3楽章
アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
そして、1910年作曲のヴァイオリン協奏曲を。
⑤ヴァイオリン協奏曲ロ短調作品61~第1楽章
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
サー・ゲオルク・ショルティ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
スコアに「ここに・・・の魂がこめられている」という意味深な言葉がスペイン語で記されているこの音楽はフリッツ・クライスラーに捧げられています。とっかかりは地味な印象を与える音楽ですが、聴きこむにつれ味わい深さを増す、エルガー渾身の協奏曲。当時の彼の創作意欲の充実ぶりが手に取るようにわかります。
さらに、1911年に交響曲第2番、13年に交響的習作「フォルスタッフ」などを発表、円熟の境地に入っていくのですが、不幸なことに1914年、第一次世界大戦が勃発、戦局が進むにつれ、相手が愛するドイツであったこと、「希望と栄光の国」が軍歌のようにもて囃されたことなどを理由に、エルガーは嫌気がさすようになりました。
休憩を挟み、
第3部
□名作チェロ協奏曲を聴く
1917年頃、いよいよアリスの体調が思わしくなくなります。5月から妻の療養を兼ね、ウエスト・サセックス州のフィトルワース近くの山荘を借り、作曲に専念。このころ書かれた作品を、アリスは「ウッド・マジック(森の魔法)」と呼び、こよなく愛しました。
1918年、ヴァイオリン・ソナタ、弦楽四重奏曲、1919年、ピアノ五重奏曲、チェロ協奏曲などで、内省的な室内楽中心の作品が多く書かれました。中でも「チェロ協奏曲」は間もなく訪れる妻の死を予見するかのような哀感と慟哭が反映された傑作です。この音楽はエルガーの最後の大作にもなりました。
⑥チェロ協奏曲ホ短調作品85
ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)
サー・ジョン・バルビローリ指揮ロンドン交響楽団
第1楽章の最初から、恐ろしいまでの感情が吐露されたデュ・プレのチェロに畏敬の念すら覚えます。これがまだ二十歳そこそこの少女によって演奏されたという事実自体が驚異です。一同息を殺して拝聴した、そんな感じです。
1920年4月7日にアリス夫人が死去した後、エルガーの創作意欲は一気に減退します。以降、大作と呼べる作品は書かず、当時発明された電気式録音に興味を抱き、自身の作品をレコードに残す作業に時間を割くようになりました。最晩年には交響曲第3番やピアノ協奏曲の創作にも力を注ぎましたが、結局未完に。最後の日々は、ベッドに横たわりながら、ハリエット・コーヘンとストラットン弦楽四重奏団による「ピアノ五重奏曲」のレコードを何度も繰り返し聴き続けたということです。(この音楽はアリスとの最後の思い出の曲)
「私が成し遂げたことは妻のお陰によるものが大きい」
1934年2月23日、癌のため永眠。
講座の最後に、チェロ協奏曲の聴き比べをしました。
⑦チェロ協奏曲ホ短調作品85
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団
マイスキーらしい十分に美しい演奏ですが、ジャッキーを聴いたあとでは残念ながら物足りなさを覚えます。いかにデュ・プレの演奏が他を圧倒しているかがよくわかります。
次回は、少し趣向を変え、昨年Esoteric社からリリースされたムラヴィンスキーのチャイコフスキー後期交響曲集を肴に講座を進めていこうと考えています。これ以上は考えられない音質改善により、ムラヴィンスキーの神憑り的演奏を堪能しましょう。乞うご期待!