第44回 早わかりクラシック音楽講座 2011/3/5(Sat)

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「大ヴィルトゥオーソ、フランツ・リスト愛の生涯~生誕200年によせて」

内容
≪ 大ヴィルトゥオーソ、フランツ・リスト愛の生涯~生誕200年によせて ≫
第1部:ピアノ生演奏(Piano:愛知とし子)
第2部:リストその人、少年時代~1830年代パリ
第3部:マリー・ダグー伯爵夫人との恋、ヴィルトゥオーソの誕生、そしてカロリーヌ
-お茶とお菓子付-

久しぶりに土曜開催となった「早わかりクラシック音楽講座」。5年目の劈頭を飾る第44回のテーマは、今年生誕200年を迎えるピアニストであり作曲家でもあるフランツ・リストです。とかく華麗な超絶技巧だけにフォーカスされるリストですが、彼の生涯や思想を勉強すると、新たな側面が見えるようになります。「天才は社会に役立たねばならない」という信条から音楽活動だけでなく様々な社会活動に生涯を通じて参加し続けたフランツ。芸術家が2本の足で自立することの重要性を呼びかけ続けたフランツ。現代の音楽シーンが今のような姿でいられるのもフランツ・リストの存在があってのことだと痛感しました。

第1部
□ピアノ生演奏(Piano:愛知とし子)
①ショパン:ポロネーズ第6番変イ長調作品53「英雄」
②リスト:パガニーニによる大練習曲~「ラ・カンパネラ」S.141

1830年代初頭のパリ。何人もの有名な芸術家がサロンに集まりました。若きショパンとリストも時同じくしてパリに住居を構え、音楽家として切磋琢磨しあいました。当時のリストは影響を受けた作曲家の一人としてショパンを挙げています。特に、祖国への想いを綴ったポロネーズには相当な影響を受けたようでハンガリー狂詩曲に反映されています。本日の1曲目はショパンのポロネーズから有名な「英雄」を。そして、第2曲目には、おそらくリストの作品の中でも「愛の夢」と並び有名であろう「ラ・カンパネラ」を愛知とし子が演奏しました。

写真 001

第2部
□リストその人、少年時代~1830年代パリ
本論に入る前に、まず皆様にお聴きいただいた音盤は、
①キース・ジャレット:ケルン・コンサート

1975年10月の一夜、ケルンのホールで繰り広げられたピアノ・ソロによる即興演奏。現代のジャズ・シーン、あるいはロック・シーンで繰り広げられている「即興」こそが、19世紀前半のヨーロッパ音楽界の「当然」であっただろうという推測から10分近く耳を傾けました。やはりこの音盤の持つエネルギーは相当なものです。当時のフランツ・リストの演奏会の雰囲気はまさにキース・ジャレットの演奏会のような雰囲気だったのではないでしょうか。

ということで、本題に。
1811年10月22日に、現ハンガリー領ライカに生まれたフランツ・リスト。一人っ子で幼少の頃から彼は類い稀なる音楽的才能を発揮しました。家庭ではドイツ語が用いられたこと、そして12歳からはパリで生活していたため日常的にはフランス語を使っていたことからハンガリー語は一切話せなかったそうですが、故国ハンガリーへの想いは尋常でなかったナショナリストであることがまずはリストの軸となっています。そして、①大貴族に仕える家族に生まれ静かな片田舎で育ったこと、②初等教育以上の教育を受けていないこと、③決して高貴な血筋に生まれたわけではないなどの理由から、平民の生まれで無教養から来るコンプレックスこそが彼の原動力の根源であること、後の誇大妄想的大袈裟な表現を好む傾向や自己を美化すること、貴族や勲章に憧れを持つことなどに影響を与えていることが歴然です。リストの音楽が良くも悪くも表層的、技巧的であるのこともそのようなことが原因なのだと思われます。

では、少年時代からの彼の生き様を振り返ってみましょう。6歳でピアノの手ほどきを受けた時から才能を発揮、11歳の時にはウィーンに移住し、チェルニーにピアノを、サリエリに作曲理論を師事しました。さらに翌年にはパリ音楽院への入学を求めパリへ行くことになりますが、結果は不合格。そのまま、パリにいつき13歳でパリ・デビューを果たします。ところが、16歳の時に突然父親が急死し、リスト自身が生活の糧を稼ぐためピアノ教師として働かざるを得ない状況に陥りました。同じ頃恋愛関係にあった貴族の娘であるカロリーヌとは身分差という理由から結果的に破談。父の死や失恋、そして身分差別などによるショックで鬱状態に陥ったほどでした。そんな彼に今一度やる気を出させたことが、当時の社会的背景、そう、自由を求める人々の革命思想を知るに至り、「厭世的な思考から脱却し、現実社会とのつながりを強くすること」の重要性を再認識したのでした。以降は、ピアニストとして作曲家としてサロンで大活躍をしてゆくのですが、当時のリストに多大なる影響を与えた3人の音楽家にまずはフォーカスを当ててみました。

1831年3月9日にパリ・デビューを果たしたパガニーニのコンサートを聴き、リストは感動の手紙を弟子に認めています。後に作曲された「ラ・カンパネラ」の原曲になった「ヴァイオリン協奏曲第2番」を抜粋で聴いてみました。

②パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調作品7~第3楽章
サルヴァトーレ・アッカルド(ヴァイオリン)
シャルル・デュトワ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

「ラ・カンパネラ」が、パガニーニのこの曲のアレンジであったことを知らなかったという参加者が多かったのですが、皆さんパガニーニの超絶技巧を伴う音楽を聴き吃驚されていました。
そして、その1830年12月5日の衝撃。そうです、ベルリオーズの「幻想交響曲」が初演され、リストもその場に居合わせたのでした。かなりの熱狂ぶりだった様子が手紙などに残されています。

③ベルリオーズ:幻想交響曲作品14~第4楽章「断頭台への行進」
シャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団(1967.11.14Live)

先年リリースされたミュンシュによるパリ管発足ライブから第4楽章を聴きました。音質的にはもうひとつですが、壮絶な音楽が我々を圧倒します。1830年代のパリの人々はどんな思いだったのでしょうか?

さらに、この曲に感銘を受け、いち早く「ピアノ・スコア」としてリリースされたリストによるピアノ編曲版を。

④ベルリオーズ(リスト編曲):幻想交響曲作品14~第4楽章「断頭台への行進」
フランソワ・デュシャーブル(ピアノ)

管弦楽をピアノ独奏用によくもここまで細密にアレンジしたという優れもの!原曲にまさるとも劣らない迫力!脱帽です。

3人目は盟友ショパン。当時、ステージを共にし、バッハの協奏曲などを演奏したことが知られています。リストに献呈された12のエチュードから。

⑤ショパン:12の練習曲作品10~第3曲「別れの曲」、第12曲「革命」
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)

いわずと知れた名盤です。若きポリーニの技巧はリストを凌駕するかもしれません。

写真 003

第3部
□マリー・ダグー伯爵夫人との恋、ヴィルトゥオーソの誕生、そしてカロリーヌ
女性遍歴という点でもリストは革新的でした。数々の女性と浮名を馳せた彼ですが、最も有名なのはマリー・ダグー伯爵夫人との恋でしょう。彼女は、当時パリの3大美人といわれたほどの美貌の持ち主で、性格は沈着冷静、実は内面に熱い情熱をもつ女性でした。また、不倫という関係でありながら、2人には3人の子どもがありました。うち2人は早世しますが、真ん中のコージマだけは長
生きをしました(後にワーグナーと駆け落ちをしたことも有名)。

ダグー夫人との関係はわずか5年ほどで形骸化しますが、その間にも多くの作品が生み出されました。しかしながら、ヴィルトゥオーソピアニストとしての夢を捨てきれないリストにとって、重要なことは1回でも多くコンサートを開き、多くの聴衆を魅了することだったようで、少しずつすれ違いが生じるようになったことがその大きな要因だといわれています。(1844年5月初めに2人は訣別)

そんな中、1839年3月8日には、西洋音楽史上初めてとなる独奏会をリストが開催。何と独奏会はリストの発案だったようです。さらには、リサイタルという名称も初めてリストが使ったそうですし、現代の演奏会のスタイルを決定したのもリストでした。音楽作品だけに限らず、生き方すべてが革新的で自由だったフランツ・リスト。その能力の高さには舌を巻くほどです。マリーと別れた後、もちろん女性関係は絶えませんが、最後の「女」になったのがカロリーヌ(カロリーヌは音楽家リストを世の中にアピールすることを主眼として付き合いました。彼女はリストが亡くなった翌年に後を追うように亡くなります)についても少しお話をさせていただきました。

※リストの長い生涯を短時間で完璧に追ってゆくのは至難の技のようで、間を省略し、ここからは後半生の音楽を中心に聴いてみました(1860年代、50代を迎える頃からピアノ曲が減少、宗教音楽が創作の中心になってゆきました)。

⑥リスト:2つの伝説~第1曲「小鳥に説教をするアッシジの聖フランチェスコ」
エリック・ハイドシェック(ピアノ)

いよいよ瞑想的で前衛的、一般にはそう簡単に理解できないであろう音楽だと思います。しかし、その「祈り」は本当に美しい。ハイドシェックの「自由な」演奏がそれに輪をかけます。

管弦楽作曲家リストの一面も少し。
ということで、交響詩を。

⑦リスト:交響詩「前奏曲」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

圧倒的なオーケストレーション。いかにも表層的な感を免れませんが、一期一会のつもりで聴くと打ちのめされるほどですね。壮年期のリストのエネルギッシュな思いが伝わります。

ところで、最晩年のリストは毎日のように大酒を飲んでいたといわれます。毎日コニャックを1,2本とワイン2,3本を。時にアブサンという強いお酒を常用していたということですから、いわゆる「アルコール中毒」でしょう。自身を大きく見せたがっていたナルシストのリストにしてみれば、若い頃から相当なストレスがあったのだと思われます。一方で、ありのままの自分を表現できないという不安。おそらく途轍もない孤独感に襲われていたのでしょう。

1881年7月2日、自宅の階段から落ち大けが(これが死の遠因となったといわれています)。1882年にはバイロイトに詣で、初演された「パルジファル」を4回観劇。11月~翌1月にかけベネツィアを訪問。死の直前のワーグナーに会い、「悲しみのゴンドラ」を作曲するのです。

⑧リスト:悲しみのゴンドラ第2番
クリスティアン・ツィマーマン(ピアノ)

何とも静かで祈りに満ちた部分と、慟哭を表す部分の錯綜・・・。ツィマーマンのピアノはあまりに真っ当ですが、リストの「想い」は伝わってくるようです。

1886年7月31日、リストは亡くなりました。
まる3時間、リストの生涯と音楽を振り返りました。
音楽家として自立的に生きることをモットーとしたリストの人生。それは独創的でありながら、堅実なものだったと思われます。現代の我々が学ばなければならない側面が彼の中にありそうです。

最後に、もう一度キース・ジャレットのピアノを。
リストの生涯を振り返り、音楽を聴いた後に接するキースのソロ・パフォーマンスは感銘深いものです。

⑨キース・ジャレット:パリ・コンサート~冒頭5分

写真 008

次回、第45回は「ドビュッシーと1900年代パリ」と題し、ドビュッシー周辺の音楽を採り上げます。なお、日程が4月29日(祝)から5月4日(祝)に変更となりました。たくさんの方のご参加をお待ちしております。