「アダルト・チルドレン(AC)」という概念が知られるようになってから久しい。一般的には「大人になりきれない子供のような大人」のことをそう呼ぶと思われているようだ。しかしながら、専門的に解釈すると「アルコール依存症の家族を抱える家庭に育った子供がなる症候群」のことを総称して「アダルト・チルドレン」というらしい。本来、子供がお腹を出して最も自然に振舞える場所が家庭なのだが、「親からの虐待」、「愛情欠落」、「スキンシップの不足」などいわゆる「硬直性」がある家庭に育つと、子供は「様々な役割を演じなければならず」、精神面で大きな問題を抱えてしまうことになるのである。ところが、そういう子は「演じることに慣れきってしまって」おり、表面的には人一倍快活で、仕事もでき、人の面倒もよくみることができるという側面を持つので他人からは非常に評価され、「恋愛関係」などの特別親密な関係にならないとその問題を知ることは非常に難しい。逆に言うなら、「恋愛」や「結婚」などのプラーベート然り、仕事や職場などのビジネスの場然り、あらゆる場面にトラブルを持ち込んでしまう傾向にあるのが「アダルト・チルドレン」であると言い切っても過言ではなかろう。
先月の古典音楽講座で取り上げたショパンの芸術創作だけでなく人生そのものに影響を与えたジョルジュ・サンドはACであった。そもそも彼女の幼年時代のことをよくよく調べてみると、父親不在で、母親からの愛情を充分に受けておらず、しかも祖母から熾烈な教育を施されていることから、アダルト・チルドレンを生み出す環境に育っていることがよくわかる。サンドは世間から認められんと自らの恥部を隠し、表舞台に出るべく一生懸命がんばったことだろうと推測される。その甲斐あり、若くして文壇に登場し、19世紀の初頭というまだまだ封建的な考えが流布していた時代にいち早く「女性の権利」というものをアピールした稀有の天才であったことは間違いない。しかし、ひとたび彼女のプライベートに目を向けると、男性遍歴は奔放というより病気に近い。とっかえひっかえという字そのまんま、途切れなく男性と肉体関係をもっているのである。恋愛というより「依存」といった方がむしろ正しい。これは「アダルト・チルドレン」の異性関係の一番の特徴である。 そして、楽聖ベートーヴェンもアダルト・チルドレンであったことが最近出版された 「ベートーヴェンの精神分析」(福島章著)に論じられており、非常に面白い。ベートーヴェンも幼年時代から父親がまさに「アルコール依存症」で虐待を受け、母親からは守ってもらえなかったという「トラウマ=心の傷」を抱えていることがよくわかる。いわゆる傑作の森といわれる時期に彼が書いた楽曲(第5交響曲「運命」、ピアノ協奏曲第 4番、「熱情」ソナタ、ヴァイオリン協奏曲など)に共通の特徴は、4つの同音の羅列がテーマに現れることである(最も有名なのは「運命」交響曲のテーマ、ダダダダーン)。著者の解釈ではこの「4つの音」は父親の鉄拳をイメージし音化されており、その「苦悩」を最終的に自己開放し、「歓喜」へと導くように完璧に推敲され創られているということである。
いわゆる「苦悩から歓喜へ」という楽曲構成のことである。要は、「トラウマを振り払い自律する」という自己のテーマを作曲家の表現手段である「音楽」に込めたものなのだと解釈できよう。なるほど非常に納得できる。
以上のように歴史上で天才といわれている人たちの「人となり」をさぐっていくと、「アダルト・チルドレン=トラブル・メイカー」という構図はどうも一方的な見方なのではないかと思えてくる。極端な言い方だが、「天才」となるべき魂があえてそういう問題のある両親、家庭を選び、そしてこの世に誕生し、「過敏ともとれるその神経=アンテナ」を駆使して「新しいもの、こと」を生み出し、イノベーター(先駆者)になっているのではないかと考えるべきなのではないか。表面的な(ここでいう表面的とは上っ面だけという意味ではなく、地球レベルの狭い範囲という意味)「人となり」だけでその人を判断するのは避けたほうがいいかもしれない。宇宙レベルで人間を捉え、もっと人間の本質を見るべきである。どんな人も問題を抱え、欠点もあれば長所もある。やはり「その全てを受け入れ、認める」ことで、自分自身を信ずる力も生まれてくるのかもしれない。世の中に不要な人、不要なものはそもそも存在しない。
そのことはベートーヴェンの書いた全ての楽曲が教えてくれている。