一体リヒャルト・ワーグナーの頭の中はどういう風になっているのだろうか?
その生活は過剰な浪費癖に借金地獄。一方、その芸術的センスにかけては他の追随を許さぬ人間業とは思えぬ統率力を内包する。作詞、作曲という創作的能力における非凡さ、そして、歌手の演技、舞台装置、衣装、照明など多岐にわたる演出面(作詞や作曲とは違った現実の問題を処理する能力が要求される)での力量。理論的・創作的能力と現実的能力の両方をもっていたところにワーグナーの「天才」がある。
その「天才」の人生はいわゆる「パトロン」であるバイエルン王ルートヴィヒⅡ世の出現により180度転換する。国の財源を湯水の如く「天才」に費やした彼も、ある意味ワーグナーその人と同類であったのかもしれない。そして、「狂王」と呼ばれたルートヴィヒも、ルキノ・ヴィスコンティの映画の結末のように謎の死を遂げる。
1849年、ドレスデン革命の際、指名手配されスイスに逃れたワーグナーはその後しばらく作曲の筆を折り、沈思黙考、「行動派」から「思考派」へとその活動を転換し、芸術論、宗教論、哲学論に及ぶ後世にまで影響を与えることになる累々たる著作を世に送り出すことになる。最終的には26年という年月をかけた大作「ニーベルングの指環(通称、リング)」の先駆けとなる「ジークフリートの死」という台本が産み落とされたのもちょうどこの頃のこと。
そして、前述した狂王ルートヴィヒの庇護の下、自身の楽劇のみを上演するバイロイト祝祭劇場を与えられた作曲者は以降飛ぶ鳥を落とす勢いで19世紀末の西洋音楽界を席巻することになる。
合計15時間を要するワーグナー畢生の大作「ニーベルングの指環」。ともかくワーグナーを聴くなら無謀ながらこの「指環」から攻めるべし、というのが僕の持論。
「指環」というドラマの筋書きは壮大で、舞台は天上界、地上界、地下界という3つの「世界」で構成され、神々、巨人族、ニーベルング(小人)族、そして人間族が、黄金で作られた「指輪」を軸に様々な事件を通じて、「権力」の没落、そして「愛」による救済をテーマに華麗な音楽と絶妙な台詞によって進行していく。
あまりに複雑な人物関係と意味深い物語構成であるゆえ、台本の行間まで読むと様々な解釈が考えられ、今の世に至るまでこれが正解だという答えは探し出せていない。そもそも「指環」にはもともと2種の結末が存在し、ワーグナー自身どちらを最終稿にするか相当悩んだらしい。
一つは「ブリュンヒルデが、ヴァルハラの終焉を見届けた人間たちに向かって『私はこの世を支配者なしに残していこう』といい、『神聖な叡智の宝を世界に教えよう』と告げる。宝とは、すなわち『喜びにつけ、悲しみにつけ、幸をもたらしてくれるのは、ただ、愛だけです』というもの。
もう一つの結末は「ブリュンヒルデが『永劫の流転の開いた扉を、いま、私は後ろ手に閉じる』といい、『悲惨な愛のこよなく深い悲しみが私の目を開いたのでした。私は世界が終わるのを見たのです』と結ぶ。
ワーグナーが選択した答えはそのどちらでもなかった。最終的には台詞は抹消され、音楽のみによって語られる「神々の黄昏」の最終場面。ブリュンヒルデの自己犠牲の歌唱が終了し、ハーゲンの「指環から離れろ!」という言葉とともに彼は水中に飲み込まれてしまう。そして、ヴァルハラ城が火の中に消えていくシーンはまさに神々の最期を表しており、ワーグナーの音楽は「愛の救済の動機」によって締めくくられる。そう、最後は「音楽の力」のみによって作曲者は語ったのである!
ちなみに、ワーグナーは総譜の最後に「もう何も言うまい」と記している。まさに最終の解釈は我々聴き手に委ねられている。
「愛」以上の「力」は存在しない、ということか・・・。