No.013 「第9と古典音楽講座について思うこと」 2007/11/7

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2007年も残すところ2ヶ月弱。「早わかりクラシック音楽講座」も早いもので10回を越す。その間たくさんの方々にご参加いただき、またありがたいアドバイスもいただき、とても感謝している。
特に最近、この講座のあり方についても少々考えるところがあり、マイナー・チェンジをしながら少しずつ進化、深化することが重要だと考えるようになった。ここまで9ヶ月間というのは、作曲家のバックグラウンドや時代背景を教えながらCDを聴かせるという、どちらかというと一方通行的な講義形式で講座を進めてきた。
しかし、どんなことでもそうなのだが、同じ手法でやっているとマンネリ化するもので、今月実施する講座から手始めに「参加型」の講座にできないかと頭を捻っているところだ。

今回は、師走を前に、日本では恒例になっているベートーヴェンの第9交響曲をとりあげる。この曲はいわずとしれた楽聖晩年の最高傑作の一つであり、その革新性と芸術的精神性の高さから、後世の作曲家にとっての道標となった記念碑的大作である。
ポピュラー・ソングにまでアレンジされている終楽章の「歓喜の歌」はともかくとして、1時間を越えるこの交響曲は、そうそう万人受けする楽曲だとは思えないのだが、とはいえ、アマチュア・オケからプロフェッショナルまで毎年日本中の至る所で演奏される機会をなぜかもつ。しかも、ただ聴衆として会場に足を運ぶだけでなく、合唱団に参加して、何ヶ月も練習を重ね(ドイツ語の発音に始まり、音程の訓練や発声法そのもののエクササイズなど決して片手間にできる技ではないのだが)、舞台で歌うサラリーマンやOLも多いというところが他の楽曲にない特異性をより一層引き立たせるのである。

シラーの書いた詩の持つ普遍性であるとか、ベートーヴェンの書いた楽曲の高揚感であるとか、人々の心を捉えるだけのエネルギーは確かにあるのだが、それにしてもなぜ「第9」なのだろうか。
一ついえるのは、人は「一体感」を求めているということだ。数ヶ月間の練習を通して培った人間的なつながりが、本番の舞台でここぞとばかりに爆発し、会場に参加した聴衆の力も相まって「一つになる」という疑似体験。そう、「一体感」の疑似体験といってもいいかもしれない。

そして「一体感」以上にある意味重要なのが、合唱が歌う「歓喜の歌」の歌詞。ベートーヴェンがシラーの詩から拝借した「歌詞」の持つ絶対的エネルギー。ドイツ語であるがゆえ、一般の人は意味を知らずに歌ったり聴いたりしている人も多いかもしれない。しかし、耳の聴こえなくなった楽聖が自身の「心と内面」に意識を向け創造したこの楽曲は、前奏とバリトンの歌うレチタティーボにおいて前の3つの楽章を完全否定し、最終的に「人間賛歌」を合唱ともども声高々に歌い上げるという構成を持つ。

神の計画により、太陽が喜ばしく天空を駆け巡るように、
兄弟たちよ、自らの道を進め、英雄のように喜ばしく勝利を目指せ
抱き合おう、諸人(もろびと)よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に、
父なる神が住んでおられるに違いない

合唱が上記の歌詞を歌い上げる頃には、指揮者もソリストもオーケストラも合唱も、そして聴衆までもが何物にも代えがたい「至福のとき」を共有し、最後は一体となって「恍惚」の境地に辿り着く。耳が聴こえなくなることを代償に、いわゆる世間と隔絶した「自分自身」と直接に対面したベートーヴェンが神から授かった至高のメッセージ。老若男女問わず、日本中でこの曲が愛好される背景には、我々日本人が、全く以って無意識だが「愛」というものに共感し、世界が一つになることを望み、本当はこれまで以上に能動的に動かなければならないのだという潜在的な「意思」が明らかにあると思われる(そんな高尚なことは考えてないと否定する輩もいらっしゃるでしょうが・・・)。

第9に想いを馳せながら次のように僕は考える・・・。
音楽とは演奏者と聴衆、そして楽器の一部であるホールそのものの三位一体によって創られる「波動(気)」と「時間」の芸術である。ならば、この「音楽講座」も一方通行ではなく参加者の意思、感性を動員し、そこに居合わせる皆で創造していく方向性にもっていってもいいのではないか。あらかじめ決められた流れで「予定調和」的に終了するセミナーではなく。ベートーヴェンは常に新しいことにチャレンジした。常に変化、前進することが大切だ。