No.014 「五感という壁、そして殻」 2007/12/1

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五体満足という言葉がある。10年ほど前、「五体不満足」という書籍がミリオンセラーになった。記憶している方も大勢いることだろう。著者の乙武洋匡氏は自らの障害を「障害」だと認識していないところが最大のポイント。「超個性的な姿」だと表現しているのである。誕生直後、お母さんはその姿を見て単純に「かわいい」といったと言う。究極の「プラス思考」、「プラス発想」。もうこれは「神話」である。
身体の四肢の障害や精神的な障害など、いわゆる「不幸」な境遇に生まれたと嘆く人たちもいる一方、その状況を逆手にとって果敢に人生に挑戦し、むしろ周りの人々を勇気づけてくれる乙武君のような人もいるわけだから、どんな風(姿形含めて)に生まれてくるかということよりどんな風に生きられるかの方が重要なのだ。

今年の6月に盲目のピアニスト、梯剛之君の演奏するショパンの第2コンチェルトと幻想即興曲を聴いた。生演奏ゆえ確かに瑕はある。しかし、「目が見えない」人が弾いているとは思えないしっかりとした地に足のついた技巧は驚きであるし、何よりも一体となった聴衆に格別の「感動」を与えてくれたところが素晴らしい。「盲目だから」というハンディに対する「同情」の念もひょっとするとあるのかもしれない。とはいえ、僕がお誘いしてその演奏会に行った友人たちが一様に感動していたことを思い起こすと、ただ単に「同情」からのフィーリングばかりでない何か言葉では表しきれない「心を震わせるもの」が伝わってきたのであろうことが容易に想像できる。
梯君は、目が見えないということにより聴覚や嗅覚が発達し、音楽家(創造者)にとって重要な独自の研ぎ澄まされた感覚を獲得しているのだろう。それは、我々健常者にとっては未知の世界であり、いわば「自分が知らない世界」を体験している人の創造に対し、尊敬や賛辞の念を込めての拍手喝采だったのかもしれないと、今になって思うのである。

また、これも10年程前、フジコ・ヘミングという耳の聴こえないピアニストが一世を風靡した。いまだにコンサートなどを開くと中年女性ファンが会場に詰め掛け、ほぼ満員になるということだから名前くらいはご存知の方も多いことと思う。彼女の場合は、その境遇の紆余曲折などからマスコミがとりあげやすかったのだろう、何だか悲劇のヒロイン然として、僕などはその演奏を聴いてもまったく感動もしないし、ましてやコンサートに行く気もしないのだが、10年経過してもある程度の人気を保っているところから考えると、やはり何か常人の感覚を超越した「何か」があるのかもしれない。ただ、フジコに関しては以前テレビ放映されたときの演奏をチラッと聴いただけなので、これ以上の言及は避けることにする。

ここのところ、「障害」や「心の傷」を抱えている人々に対して奉仕をしている人たちとの出逢いやそういう書籍との出逢いがなぜだか多い。彼らから話を聞いてみても、また本を読んでみても感じるのだが、何だかんだ言いながら大半の人間は「障害者」を特別扱いしているように感じるのである。良い意味でも悪い意味でも、だ。
「目が見えること」、「耳が聴こえるということ」、「空を感じ、空気を感じ、自然を感じ、虫の鳴き声を聞ける」ということ、そういうこと全てによって人間は生きているという実感がもてるのだといえば、それはそれで正しい。しかし、一方で僕は思う。人間は「五感」というものを持たされているがゆえに逆に「壁」や「殻」を作ってしまうのではないかと。ある時友人と「身体があるから人間って不自由なんだよな」と話をしたことがある。確かに五体満足で生まれてきたことは両親やご先祖様に感謝しなくてはならない。怪我なく育ててもらったことにも感謝しなくてはいけない。でも、「見える」から差別するのだろうし、「聴こえる」から区別するんじゃないか、とも思ってしまうのである。言い過ぎかもしれないが・・・。

ベートーヴェンは壮年期から難聴に苦しみ、遺書まで認めたほどである。さすがに、自殺は思いとどまったものの、死ぬまで「耳」の疾患に苦しんだという。音楽家にとって「耳が聴こえなくなる」ということは致命的である。しかし、その病気を苦にすることなく、精神的にも乗り越えた後にベートーヴェンが作り出した楽曲群は後世の作曲家や演奏家が舌を巻くほどの他の追随を許さない「高み」に達しているのも事実なのである。そのことを考えると、意外に「耳の疾患」というのは致命的なものでもなんでもなく、それゆえに獲得した独自の境地(これが「悟り」というものなのかどうかはわからないが)がやはりあるのだろうと想像できる。

一連の後期ピアノ・ソナタ。そして、後期弦楽四重奏曲群。第9交響曲、ミサ・ソレムニスなどなど。そのどれもが作曲者の意識や身体を離れたところに生れ落ちた、いわば「音のない世界」で鳴り続ける「空(くう)」の音楽であるように僕には思えるのである(特に、声楽を伴わないソナタと弦楽四重奏)。
ストイックな修行僧が死の間際、ほんの一瞬「神」、「仏」と通じたと感じるような深遠な恍惚感というか何というか。本当に言葉で言い表し難い「純度」をもった楽曲群なのである。

そんなことをいろいろと思い巡らしながら、『完全なる静寂と完全なる暗黒の中でこそ、初めて人間は「神」や「仏」というものを感じることができるのかもしれない』と考えるようになった。語弊のある言い方だが、その意味では「盲目」や「難聴」という事実は「神」から与えられた「贈り物」なのかもしれないと思うのだ。
自己卑下することはない。嘆くこともない。ましてや「差別や区別」に屈するなどというのはもってのほかである。