No.016 「個性~『ピアノの森』を観て」 2008/1/23

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一色まこと原作の「ピアノの森」を観た。もとになったマンガの方は読んでいないが、そもそも影像がとてもきれいで、しかも演奏シーンで流れる「音楽」が単なるBGM的なものに終止せず、観客にきちっと聴かせようという意図がはっきりと伺えるところがとても興味深かった。観終わってからいろいろと調べてみると、アニメーション中のピアノの鍵盤の動きはコンピューターでプログラミングされており、現実さながらの手の動きはとてもリアルで影像としても楽しめたし、しかもピアノ演奏を実際に吹き込んだのはウラディーミル・アシュケナージだということで(彼の演奏は優等生的なところがあまり面白くないので、普段は滅多に聴かないが)、音楽そのものも楽しく聴くことができ、とても良かった。最近は「のだめカンタービレ」といいこの「ピアノの森」といい、単なる「マンガ」と侮れない良作が多く、いわゆるクラシック音楽ブームがブームに終わらず、これによって「古典音楽」の良さを理解し、愛好する輩が増えることを望む。

ところで、この「ピアノの森」のストーリーは、原作の前半部分を映画化したものらしく、マンガの方を読まずに言及するのは心もとないのだが、感じたことを書いてみたい。

かつて名ピアニストとして一世を風靡した阿字野壮介。彼は事故により左手の機能を失い、ピアニスト生命を絶たれたのだが、その彼がかつて愛用していたピアノは森に捨てられている。雨風に打たれ、当然音は出ないのだが、そのピアノは幼少の頃から戯れていた一ノ瀬海にだけは「心」を開き、途轍もない素晴らしい感動的な「音」を出す。

このあたりは、10数年前にテレビ放映されて以来いまだに根強い人気を誇る「新世紀エヴァンゲリオン」で、いわゆるロボットがそれを操縦する子どもの「心」とシンクロすることで力を発揮するという内容を髣髴とさせるような設定であり、楽器もやはり「無」になり自然体で「無邪気」に対峙することにより「シンクロ」し、それが潜在的に持つ力を引き出すことができるということなのだろう。ピアノと「心」を一つにすることで人に感動を与える音楽を奏でることができるのだ。ピアノも生きているのである。

現代人が求めているものは「癒し」であり、その「癒し」の原点が「シンクロ(一体化)」であることにあらためて気づかされる。

主人公である海の演奏は、他者との比較を超えた、あくまでも「自分との闘い」を念頭に置いた「自分自身」にしかできない演奏であるのに対し、ライバルである雨宮修平の演奏はとてもオーソドックスで優等生的。どちらかというと規範の中で育ち、人からどう見られるか、どう聴かれるかを意識した演奏。劇中最後、コンクールでは修平が予選通過、海は予選落ちとなるが、修平は本当は自分が海に負けたことを自認する。実際にはコンクールにおいてそのようなことはありえないらしいが、聴衆がスタンディング・オベイションで応えている状況が描かれている。海の演奏はそれほどに感動的な演奏だったのだ。

1980年のショパン・コンクールにおけるイーヴォ・ポゴレリッチの例が典型だが、今のコンクールというもののあり方にも一石を投じる内容になっている。きちっと枠にはまった「正しい」演奏をするピアニストが入賞し、枠にはまらない「個性的な」演奏をするピアニストは落選する。芸術も人生も他者との闘いではなく、本来ならば「自分自身」との闘いであるはずだし、そうでなければならない。
ちなみに下記は、「人間力向上セミナー」の中で受講していただく皆さんに紹介する言葉である。このアニメ映画を観て思い出したので書く。

本当の勝者-いつも他人を負かすことに固執してその人に勝つという意味の勝者ではなく、人生に反応する、答える点での勝者になるには勇気がいる。自律に伴う自由を経験する勇気、親密さを受け入れ、他の人々と直接に出会うという勇気、一般には人気の無い主張をして譲らないという勇気、承認よりも自分の確信の方を、しかもそれを繰り返し選ぶという勇気、自分の選択に対して責任をとる勇気、そして一番重要なのは、あなた自身がきわめてユニークな人間であるというその存在になりきるという勇気である。

「あなたをみんなと同じ人間にしてしまおうと、日夜励んでいる世の中で、自分以外の誰にもなるまいとするのは、人間のでき得る闘争の中で最も厳しい闘いだ。そしてその闘いをやめてはならない。」E.E.カミングス
(M.ジェイムス/D.ジョングウォード著「自己実現への道」より抜粋)

肝に銘じ、本当の「自分自身」になろう!