No.023 「宮城敬雄指揮北西ドイツ・フィルコンサートを聴いて」 2008/10/15

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宮城敬雄指揮北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートに足を運んだ。ベートーヴェンの「エグモント」序曲、天満敦子氏をソリストに迎えたヴァイオ
リン協奏曲、そしてメインはブラームスの交響曲第1番ハ短調という19世紀ドイツを代表する重厚なプログラムであった(ちなみに、アンコールはJ.S.
バッハのアリア、そしてブラームスのハンガリアン舞曲第5番)。直感的に、この指揮者にはさほど食指が動かなかったが、もともとヴァイオリニストに興味が
あり、機会があれば一度生で聴いてみたいと思っていた矢先、ブログ上で知り合った知人から急遽来京できなくなったから代わりに行ってくれないかという相談
があり、二つ返事で承諾、その上チケットをプレゼントまでしていただいたという経緯があった。
というわけで、小雨降る中、会場である東京オペラシティまで、果たして今日の演奏はどんなものかと想いを巡らしながら向かったのである。

1曲目の「エグモント」序曲では、冒頭の音を聴くや期待を膨らませたのだが、残念ながら指揮者の技術がついていかないよう(というより奏者との関係
の質の問題だろうと想像する)で、主部に入るなり失速し、結局指揮者の個性を感じられない陳腐な演奏になってしまっていた。メインのブラームスにおいて
も、それは歴然としており、オーケストラのテクニックに関してはなかなか申し分なく感じられるものの、このオケはひょっとして指揮者を必要としていないの
ではないかという危惧さえ抱かせるようなパフォーマンスで、指揮者の個性的な解釈というものを絶対視する僕にとっては心をワクワクさせられるような演奏で
なかったことが物足りなく感じられた(それでも演奏終了後の聴衆の反応は大変なもので、一部の観客からはスタンディング・オベイションさえ起こってい
た)。ただし、ブラームスの交響曲そのものを知るという点からいえば、テンポ感も理想的で、良い曲だなという実感が十ニ分に掴める演奏だったので、この曲
を初めて生で聴くという方々にはとても良かったのだろうと思う。

宮城氏は会社の経営者でもあり、高輪プリンツヒェンガルテンの
オーナーでもある傍ら50代で指揮活動を始めた異色の音楽家である。生来音楽好きの家庭に育ち、そもそも音楽にかける情熱は並大抵のものではないようで、
昨日も2000席近いオペラシティ・コンサートホールがほぼ満員になっていたところをみると、観客を動員する力、あるいはこういうコンサートを成立させる
経済力は相当なものなのだろうと思われる。彼がインタビューを受けた記事がネット上に公開されているので、ご興味ある方は読んでみられるといいと思う。

「人生の闘いは、常に強い人、早い人に歩があるのではない。いずれ早晩、勝利を獲得する人は”オレはできるんだ”と信じている人なのである」(ナポレオン・ヒル)

幾つになっても「好きなこと、やりたいこと」を追求し、それを叶えるのは自分自身であり、何事もやってみないことには始まらないということが彼のエ
ピソードからひしひしと伝わってくる。そういうことを感じさせてくれたという意味では貴重なコンサート体験だったとあらためて思った。

ところで、宮城氏のバックグラウンドをある程度知った上で、指揮者の技術的な面を云々するのは隅に置くことにして、昨日のコンサートでは何が起こっていたのかを僕なりに考えてみた。
そもそも、音楽体験とは、演奏者と聴衆との「深いコミュニケーション」であり、実演に触れることが重要だと常々ブログでも書いてきた。演奏者は楽曲を当然
熟知し、自分たちが伝えたいことを音楽に乗せて表現するという責務があり、一方、聴衆はその場で生み出されてゆく音楽を無心に受容し、感じようとする意
識、あるいは知識が大事となる。逆もまた真なり。指揮者はその日の聴衆の意識や状態を舞台上でしっかりと感じとり、受け止める姿勢が重要で、観客側もまた
演奏者に対する敬意や期待を込めながら受身ではなく自発的に気を発するということが重要だと僕は思うのである。
さらに、舞台上では指揮者とオーケストラメンバーとのコミュニケーションが密にとられており、ソリストがいる場合は、三者の交流が緊密になされなければな
らないということもあわせて考える必要がある。指揮者は表現したいことを適確に演奏者に伝えること、そして奏者は無心に感じとり、キャッチする謙虚な姿勢
をもつこと(その意味では晩年の朝比奈御大やギュンター・ヴァントに対する楽員の尊敬の姿勢や来場する聴衆の指揮者に対する尊敬の念が、超絶的な名演を生
んだ一因でもあったように僕は思う)が重要なファクターであり、また逆に指揮者も奏者を感じながら指示を送るという深いコミュニケーション力が双方に求め
られるのである。そして、指揮者、奏者、聴衆の三位一体が確固としたものとなり、相互にエネルギー循環が起こったときに、真に感動的な名演奏というものが
生まれるのだと思うのである。

残念ながら、昨日の指揮者とオーケストラの間にはコミュニケーションという意味において幾分問題があったように思う。ましてや、ソリストとの関係に
おいては、どうしようもない深い溝があったように感じ、天満氏のヴァイオリンだけが妙に浮いたような雰囲気を漂わせる状況(クライスラー作のカデンツァの
部分で抑圧されていたものが溶解したように感じたが、そのことからもそう推測できる)で、少なからず痛々しさを感じた。

音楽家は演奏技術だけでなく、いわゆる「人間力」のようなものも求められるのだろう。もちろん人に感動を与えるためには相応のテクニックや音楽的セ
ンスも重要で、ただ「人間力」が高ければ良いというのでもない。長い間の努力の賜物である「技術」を練磨すると同時に、「人として」もつべき重要な「脳
力」を磨き続けることも重要なんだと再確認した。音楽の世界然り。他のどんな職業、仕事の場合でもその点は変わらないだろう。
宮城敬雄氏はおそらく「人間力」抜群の人なんだろうということは容易に推測できる。残念ながら、オケを縦横無尽にドライブするだけの技術、センスが少々追いついていないだけで。